蓮  光  寺

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     いのち見つめるお寺       見つめよういのち、見つめよう人生。教えに遇い、仏さまに遇い、自分に遇う。

白井聡『武器としての「資本論」』


白井聡『武器としての「資本論」』、東洋経済新報社、2020年(総頁数:290頁)

おススメ度:★★★★☆
面白さ  :★★★★☆
本文の太字のフォントがかわいい度:
★★★★★
 
 北大教育学部基礎論ゼミ室の共同募金箱が陶器製のMarx ‘Das Capital’ 通称「キャピタルくん」であったことは記憶に新しい。大学生であれば誰もが何らかの形で興味を持つであろうマルクスと『資本論』、これが本書のテーマである。
 マルクス研究で名高い佐々木隆治(経済学)は以下のように語っている。

「マルクス研究者だからというわけではなく、実際のところ、『資本論』ほど面白い資本主義批判は今のところ存在しない。アイデアの鋭さ、深さ、豊富さ、どれをとっても匹敵するものはない。ただ、もう150年経っているので、そろそろ現代のマルクス主義者が集団的に乗り越えていくべきなんでしょうね」。(2020.6.6)

 マルクス『資本論』は、その完成度の高さから今なお乗り越えられていないとやや皮肉気味にも称えられるほどの言わずと知れた古典であり、その解説書は日本に限っても汗牛充棟である。そのような中で今年4月に発刊された白井聡『武器としての資本論』、これは國分功一郎(哲学)が「実に面白かった」と絶賛するなど(2020.6.7)、最近話題の書である。本コーナー名に相応しい、「本を読んでみた」。
 本書の帯に記された挑発的な問いかけ「なぜ自己啓発書を何冊読んでも救われないのか」に興味を持ちつつ、一方書名からして「武器としての」と、若干自己啓発の香り漂う風貌にずっこけながら、むしろ両者のアンマッチが決定打となり読むことにした。
 本書は資本主義の形成を『資本論』に沿わせながら説いていくが、特に資本主義の分析に力点が置かれる。資本主義社会(白井は「資本制」という言葉を好むが)とはすべてのものが「商品」となることに特徴的であり、それは土地や労働力にも侵食し、ゆくゆくは生殖にまで波及するだろうと考えられる。しかし、対象を「商品」とすべきか否かについて、資本主義はその倫理的価値判断を伴わない。なぜなら資本主義は、社会のプロセスを「商品」の生産、流通、消費として指し、性格として本能的にその純度を高める方向にのみ駆動するものだからである。もちろん、「商品」の生産、流通、消費は「剰余価値」がなければ機能しないので、剰余価値についても資本主義はいわば衝動的に求める。白井が強調したいのは、資本主義は「剰余価値」を増やすために、生産の過程、労働の過程のみならず、人間の魂、人間の全存在を飲み込もうとしている点である。先に紹介した帯の問いかけ「なぜ自己啓発書を何冊読んでも救われないのか」の答えはこれである。公的なものを削減し、世の中の「商品」を増やすという資本主義の本能は「新自由主義」という一見まともな仮面を持つ制度改革方針に半ば必然的に行き着いたのだが、新自由主義では人間は「資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」(71頁)という価値観からしか認められない、あくまで人間中心ではなく資本(および資本の剰余価値増殖の)中心での存在でしかないため、その基底の上で「自己啓発書を何冊読」もうが救われないのは当然である、というわけである。 
 さて、では今日に生きる私たちは、このような資本主義社会に対してどう抗い、いかなる道を開拓すればよいのか。今日の現状認識について、白井は鋭く言い得たものを本書で引用している(237-238頁)。

「私は、現代という時代を、明治維新によって成立した日本の『国民国家』システムの緩慢な解体期として理解している。このシステムは、イギリスで生まれた資本制生産システムと、フランスで生まれた国民軍が中心となっており、その両者を統合しつつ機能させるために、学校教育、市民的自由、議会制民主主義などが成立した、と考えている。この国民国家の政治的指導原理はそれゆえ、『富国強兵」ということになる。この原理は『経済成長』というように言い換えられて今も生きており、安倍政権は「富国強兵」を露骨に再生しようとしている。
 しかしこのシステムはいろいろな意味で機能しなくなっており、現代の諸問題、たとえば累積する国債、中央銀行の膨張、年金·医療制度の破綻、学校の機能不全、政治不信と投票率の一低下、経済の不振、少子化などなど、というものは、この国民国家システムそのものの衰退の表現として統一的に理解せねばならない。
 とはいえ、それらを人間の理性によって、合理的計画的に運営する、という方策は、二〇世紀の社会主義という悲惨な実験によって、機能しないことが証明されてしまった。それゆえ、いったいどうしたらいいかわからない、というのが現在の状況だ、と見ている。」(安冨歩「内側から見た『れいわ新選組』」)

 経済学者・安冨歩の卓越した現状認識である。然り資本主義、新自由主義を中心とした今日の社会は「いろいろな意味で機能しなくなって」きている。しかし、だからと言って経済システムを「理性によって、合理的計画的に運営する」ことも、先は見えている。かつて階級闘争の先には社会主義が資本主義よりも強い経済成長をもたらすという観念が存在していたが、ベルリンの壁の無き後、今や階級闘争は説得力を大きく失っている。「それゆえ、いったいどうしたらいいかわからない」というわけである。
 マルクスの見立てでは、資本主義の終焉とともに共産主義が興隆するということであるが、その詳細については本書256-258頁(および『資本論』)に任せるとして、最後に白井の主張を紹介しよう。
 「いったいどうしたらいいかわからない」今日、白井はこの状況を打破する「階級闘争」の第一歩として、「生活レベルの低下」に抗うこと(277頁)、「贅沢を享受する主体になる」こと(279頁)を提言する。「労働力」とは、「等価交換」としてそれに見合う価値=賃金を受け取るのだが、それは生活水準に左右される。この「生活水準」までをも資本に包摂されることを拒絶することが大事というわけである。事実、産業革命という資本制の勃興地・イギリスで「料理がまずい」と専らの噂であることは、このことと無関係ではないと白井は示唆している。
 以上、帯に書かれた「問い」への応答を中心として、本書を辿ってきた。白井が「階級闘争」の序章として、「最も感性的な部分」である「食」に象徴させる形で人間の「感性」への資本主義の浸蝕を拒むことを主張すること、またそのために「感性」を再建することが必要であると訴えること(282頁)は、とても納得できた。しかし、それを結尾に持ってくるのであればなおさら、労働力の価値=「賃金」として話をするとより理解が捗ったのではないだろうか。
 労働力の価値=賃金とは、労働者の労働力を再生産するための生活必需品の価値、また労働者の技能養成費、そして労働者家族の養育費より構成されるが、ここでこのうち三点目、「労働者家族の養育費」に着目したい。マルクスは「労働力の価値は、一成人労働者個人の生活を維持する必要な労働時間によって決められるのみでなく、彼の家庭を維持するに必要な時間によっても決められる」(「機械装置が労働者に及ぼす直接的諸影響」、『資本論』第一巻、第Ⅳ篇、第十五章(独版十三章)、第三節)と強調する。資本家が購入した労働力はその価値以上の価値を生産するのものだが、そのためには現在働いている労働者が労働力を発揮できれば良いというわけではなく、その労働者が家庭を築き、次世代の労働者を養育できなければならないわけである。「日本型」として毀誉褒貶のある「年功序列」という賃金体系は、マルクスの分析に鑑みた際、子どもの食費、教育費が、その年齢、教育階梯の上昇につれて増加していく日本の社会にとって合理的なものであった。昨年より経団連のN会長やトヨタ自動車のT社長といった経済界の重鎮による「日本型雇用の見直し」への言及が目立つが、教育が「商品」としてその値を騰貴させている今日の日本において、それを解体させることはあまり合理的とは言えないだろう。
 確かに執筆から150年が経つ『資本論』は、今日における最先端とは言い難い。ただ、宇野弘蔵が指摘したように、革命のアジテーションとしての側面にこそ蔭りは見えるものの、科学としての資本主義分析としては色褪せていない。冒頭で引用した佐々木が認めるように、今日においてもなお乗り越えられたとは言い難い所以である。

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