蓮  光  寺

  ともに いのち かがやく 世界へ      浄 土 真 宗 本 願 寺 派    

     いのち見つめるお寺       見つめよういのち、見つめよう人生。教えに遇い、仏さまに遇い、自分に遇う。

仏事の質問箱          今さら聞けない浄土真宗の仏事に関するQ&A

お寺の鐘はどんな時に撞くのですか?

お寺の鐘は様々なものがあります。浄土真宗本願寺派では梵鐘(ぼんしょう) 喚鐘(かんしょう) キン(きん) 沙羅(さわり) 磬(けい)などです。《キンの漢字は磬の石を金に変えたものです》
梵 鐘 (ぼんしょう)
 お寺の鐘の代表は梵鐘。境内にある鐘楼に据えられ、お寺の外にまで響くようにされたもです。
 宗派として規定されている撞きかたは、まもなく行事が始まることを知らせる集会鐘(しゅうえしょう)として撞かれます。行事の1時間前(もしくは30分前)にさあ集まりましょうという意味で近隣に聞こえるように撞くものです。ゴーン、ゴーンと余韻を残しながらゆっくり10打撞きます。(最後の二打は続けて撞きます)お誘いの鐘です。法座と呼ばれる大事なお参りにはかならず撞いています。
 その他、伝統的に地域の方々に時を知らせる鐘として朝夕に。毎日、朝夕の六時に10回撞いています。近所の子ども達が撞いてくれることもあります。
 また、除夜会(じょやえ)に除夜の鐘として。12月31日の暮れから新年にかけて108回撞きます。


お参りの皆さんに一つづつ撞いていただきます。煩悩を除くとよく言われていますが、鐘を撞いたぐらいで煩悩を取り払うことは出来ません。古い経典に、新しい門に入るとき、108の教えを聞いて行くという記述があります。無数の煩悩があるからこそそれを自覚し108の誓いを立てて新しい門に入ってゆく、そこから新しい年を迎えるにあたってという意味があるのでしょう。
 また近年では、東北の震災の追悼とそれを忘れないため3.11の午後2時45分に近隣のお寺さんと一緒に撞こうという取り組みもありました。広島などでは8月6日につかれるとこもあります。
 かつては洪水やお寺の火事など緊急事態を知らせる早鐘として撞かれたこともありました。

 蓮光寺の梵鐘には「正覚大音、響流十方(しょうがくだいおん、こうるじっぽう)」とお経の言葉が刻まれています。さとりの大音が、十方に響き渡るという意味です。仏さまのおこころを広めるという意味が鐘にはあるのです。

喚 鐘(かんしょう)


 これは行事の開始を知らせるために打つ行事鐘(ぎょうじしょう)としてならされます。カンカンカンという鐘です。行事の開始時刻に合わせて、少しゆっくりめに7打、そして打ち上げ打ち下ろし(山のように)そして5打、さらに打ち上げ打ち下ろし(山のように)最後に3打打ちます。
 この行事鐘の最中にお坊さん方は整然とお堂に入り、内陣に着座します。そして一同が合わせて合掌礼拝、経本をいただくことをします。


 キン(きん)  沙羅(さわり)
キン(きん) これはお経の始まり、区切れ、お経の終わりに打つものです。おおきな大キンや小キンがあります。大きな行事では、先の行事鐘のなかで整然とお坊さん方が入られ、行事鐘が終わったと同時に小キンをならしてお勤めが始まります。集会鐘、行事鐘、キンによて整然と行事が始まります。鐘によって行事が進んでいきます。 人の司会進行は要りません。西本願寺では毎朝6時からこの鐘の流れで朝のお勤めが始まります。とても荘厳な中にお勤めが行われます。

大キン
大キン

壱越調のキン
壱越調のキン

 きちんと音程が調えられた壱越調(いちこつちょう)の小キンであれば、鳴らす音をとって導師が声を出します。発声の音程を調えるための鐘でもあります。
 沙羅(さわり) これもお経のはじまりに打つものです。音はすこしシャーンというような感じの音が響きます。

沙羅(さわり)
沙羅(さわり)

磬(けい)


 これは行事でも特別な場合、ご本尊の正面で礼盤(らいばん)とよばれる導師席でお勤めをする場合にお経の始まりに打つもので、鐘と言うより、つり下げられた打楽器のようなものです。今は金属で出来ていますが、字からわかるようにもとは石で出来ていたのでしょう、余韻のあまり残らないチンという感じの音がします。

お寺さんがご法事などにかけられているカラフルなものは何ですか?

 これでしょう。これは袈裟(けさ)と言います。写真のものは五条袈裟といいます。つなぎ合われた布が五つの筋(条)に仕上げられているから五条袈裟と言います。袈裟はお釈迦さまが着られていた衣服です。葬儀などに着用する七条袈裟、略式の輪袈裟(五条袈裟を畳んだ)などがあります。
 お釈迦さまは釈迦族の王子でした。29歳で出家されたとき、道をもとめるものにはきらびやかな衣服はふさわしくないとして脱がれ、一切の飾り物も捨てられました。そして道端に落ちていたり、捨てられていた布きれ

五条袈裟
五条袈裟

輪袈裟
輪袈裟


を集め、縫い合わせてそれを自らの衣服とされたのです。それが袈裟です。インドの言葉でカシャーヤ(Kasaya)といいます。カシャーヤとは壊色(えじき)つまり汚く濁った色のことで、それぐらいの色にしか染め直すことも出来ないのでこう呼ばれました。また汚物を拭うぐらいしかできない布なので糞
掃衣(ふんぞうえ)ともよばれます。また、縫い合わされた布が水田のように見えることから、袈裟を福田衣(ふくでんえ)とも呼びます。
 暖かいインドでは身にまとうのは袈裟のみでしたが、中国や日本に伝わると寒冷のため衣をまとった上に袈裟をかけるようになり、袈裟は僧侶、仏教徒の標識、標章のような意味合いが濃くなってゆきました。釈尊の尊い衣服という意味から次第に華麗なものになってきました。
 五条袈裟に縫い付けられる白い飾り紐、七条袈裟の房の付いた紐(修多羅)はお釈迦様の教え=経をあらわします。袈裟を身に着けるのはお釈迦さまの生き方にならい、お釈迦さまの教えをいただいて生きていくということをあらわしているのです。

他宗派のお札やお守り、他宗の仏さまを、お仏壇に置いてもいいものでしょうか?

 結論から言うと他宗のお札やお守り、他宗の仏さまはお仏壇には入れません。
 私たちは、阿弥陀如来さまのおはたらきによって恵まれたお念仏を申す人生を送り、阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただきます。私たちがよりどころとするのは阿弥陀如来さまであり、南無阿弥陀仏と声の仏さまとなって私に届いてくださる仏さまです。お念仏はいつも阿弥陀さまが私を抱きしめておられる証です。
 念仏があれば他のお札やお守りが必要ないというのが私たちの信仰です。ですからお札やお守りに頼ることなく、他宗の他の仏さまをよりどころにはしません。お仏壇にもこれらは置きません。
 俗に、あの仏さまもこの仏さまもあの神様もといろんな仏さまを拝むのを信心深いとおっしゃる方がいるようですが、果たしてどうでしょう。あれもこれもいろんな仏さまを拝むのは広く浅くであり、一つの仏さまをひとすじに専ら拝む方が深いのではないでしょうか。お正信偈に専雑執心判浅深、[専ら一つのほうが深く、他を雑(まじえ)てのほうが浅いと判じられた]とあります。
 御文章<末代無智章>には「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏に仏たすけたまへと申さん衆生をばたとひ罪業は深重なりとも、かならず阿弥陀如来はすくひましますべし(御文章)<ただこころ一つに専ら阿弥陀仏如来一仏をたよりとして、その余の神仏に心をよせずに、ただひたすら阿弥陀如来のたすけたまう法にまかせた衆生であるならば、たとえどれほど深い罪業を重ねたと感じて救われがたいと思うものであっても、かならず阿弥陀如来さまは救ってくださるのです>」とあります。
 阿弥陀如来さまを親さまと親しみを込めていいます。南無阿弥陀仏は私を必ず救うという親心の喚び声であり、同時にその親心が届いた私の感謝の言葉です。他の仏さまも頼ったり、お札やお守りに頼るというのは、阿弥陀さまの確かな救いを疑っているということにもなりかねません。
 阿弥陀さまがあれば大丈夫。他のお札やお守りを頼る必要なありません。

過去帳が故郷にあるのですが、ご法事してもらえますか。お墓でもご法事出来ますか。

 まず、ご法事はお仏壇やご本堂などご本尊さまのあるところで是非おこなっていただいたらと思います。お墓、もしくは納骨堂などに併設されているような施設もあるのでそんなお仏壇の阿弥陀如来さまの前でご法事をして頂けたらと思います。
 お寺さまは東京のお寺さまにお願いするのでしょうか。故郷から来ていただくのでしょうか。故郷から、もしくは東京でも懇意にしておられるご縁のお寺さまでしたら、その旨お聞きになったらと思います。初めてのようなお寺さまでしたらその旨をお伝えし、ご法名、亡くなられた日、俗名などを書いてお渡しすれば過去帳でなくてもご法事をおつとめしていただけると思います。
 ご法事はなきかたのお浄土へのご往生を縁として私が仏法に会う大事なおつとめです。亡き方が仏さまとしてあなたにおはたらき下さり、あなたに仏法に出会う縁を作って下さり、お育ていただくものです。読経のあと、ご法話があると思います。七年経って気づかれる亡き方のお心に出会い、またそのご法話を通して私のいのちの意味、いのちの行方をどうぞ聞いて下さい。それが最も大事なことです。

浄土真宗では厄除けはしないのですか。

厄除けをしないのが浄土真宗です。

厄ってなんでしょう。厄年って本当にあるのでしょうか。
 一般に厄といわれるものは病気など心身の変調や、交通事故をはじめとする事故や犯罪に巻き込まれること、また台風や水害、地震や津波などの自然災害も含まれるのでしょうか。これらは厄年にだけ、厄払いをしない人だけにやってくるのでしょうか。また厄年っていうのも古くから様々にいわれていて安定していません、多くは死に(42)や散々(33)など語呂合わせにすぎません。体調の変わり目?それは人によって様々です。あの人は厄年に病気になった、事故に遭った、みんな後付けの結果論です。私たちはみないつどうなるかわからない人生を生きているのです。
 また厄ばらいした人だけを守ったり延命させるような神仏がはたして本物でしょうか。災難に遭った人は神仏に祈ってなかったからでしょうか。原因と結果を確かに見極めよといわれたのがお釈迦様です。病気や災難と神仏や祈りを結びつけるのは本当の仏教ではありません。

 お釈迦様は、人はかならず「病」も得、「老い」そして「死」をむかえるものである。「この世に命として生まれてきたが故に、病・老・死の苦しみがある」とおっしゃいました。どう避けようとしても避けられない老病死の人生をどう生きていくのかそれが仏教の出発点です。
 この世の誰もが生老病死・一切皆苦の中で生きている存在なのです。
「嫌なことを遠ざけて良いことを招きたい」というのは私たちの素朴な感情です。しかしそうならないのが本当の私たちの姿なのです。
 親鸞聖人の師であり、浄土宗の開祖法然上人は「祈るによりて病もやみ、命も延ぶることあらば、たれかはひとりとして病み死ぬるひとあらん。(いのることによって病気が治りったり、命が延びるのであれば誰一人として病気になったり死んだりしないでしょう)」と、法然上人は病気平癒や延命の祈りを否定されました。「除災招福(じょさいしょうふく)」をしないのが私たち仏教徒です。浄土真宗はかたくなにそれを守ってきました。ですから真宗のお寺で厄除けはしないのです。
 仏教徒、真宗門徒として生きる以上、仏教にない教え(厄年、占い、風水、姓名判断、六曜など)を気にする理由はありません。

お通夜に線香やろうそくの灯を絶やしたらいけないと聞いたのですが?

 線香やろうそくの灯りが消えても迷うことはありません。
念仏者は息を引き取るそのときにお浄土に生まれ仏となります。阿弥陀さまのおはたらきですから間違いありません。線香やろうそくは成仏のための道具ではありません。おつとめの時はろうそく線香はつけて如来さまのおはたらきを仰ぎます。ですがおつとめ以外や夜分は火の元も心配です、消してお休みになって構いません。ですから渦巻き線香なども必要ありません。
 大事なことは私たちが如来さまのお救いの確かなことを聞いておかねばなりません。それを聞いておかなければ、そういうときに私たちがあれこれと迷うのです。念仏申すものは、今生で仏になる身と定まり、いのち終わるときは直ちに浄土に生まれ仏にさせていただきます。

仏前に生けるお花はなぜ私たちのほうに向けるのですか。

お花は、私たちの方に向けます。私がお供えしたお花そのままが、お浄土の有り様を説いてくださるのです。お浄土には「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」と、どんな色の花もそれぞれに輝いていると説かれます。あなたのいのちもどんな時もどんな色でも輝いているよと教えてくれます。またやがて花は枯れます。しおれ枯れゆく花を通して、我がいのちの無常を見つめてゆきます。ですから仏前には造花ではなく生花を生けましょう。
 生けたお花そのままが私たちへのご説法なのです。

閏年にはお墓は建てたらいけないのですか?

 そんなことはありません。閏年で有る無しにとらわれず、お墓を建てて結構です。迷信にとらわれないようにしましょう。

 閏年に墓を建てないというのは、西日本や東北など一部に残るものだそうです。なぜそういわれるようになったのか諸説ありますが、一つにはこんな説があります。

 江戸時代、旧暦では閏年には閏月としてひと月増え、一年が十三ヶ月になりました。武士は年俸制でしたから同じ給料で一年を過ごさねばなりませんでした。困窮した家では家計費を節約する必要があったので、閏年には墓を建立するなどの大きな出費を控えたことからこういわれるようになったというのです。
 他にも城を造るとき、石垣の材料が不足して言われるようになったとか、あるいは年貢を納めさせるために庶民に墓の建立をさせなかった、などという説もあります。今に至っては全く
ナンセンスです。お墓が必要であれば建てて結構です。 
 お念仏申すものは阿弥陀さまが一緒です。大丈夫です。いろんな迷信も心配ない、おそれなき人生です。心配いりません。

お棺、骨壺はどんなものがいいですか?

 私たち真宗門徒はどこにいくのでしょう?
 お念仏申す者は阿弥陀さまのおはたらきによってお浄土にうまれます。仏さまにさせていただきます。お墓が人生の終着駅ではありません。お浄土に生まれ、仏となって常にかえって仏としてはたらくのです。
 そのことがわかれば、お棺や骨壺にあまりこだわる必要のないことがわかります。どんな豪華なお棺であっても、焼かれてしまうのです。それでも何十万のお棺にしたいというのであればそれもいいでしょう。多くの場合、「棺覆い」という織物がかけられていました。これは僧侶の着る七条袈裟を簡略化したもので、仏教徒の正装にして葬儀をおつとめしていたものです。
 骨壺にも色々あるようです。骨壺が終の住処ではありません。本来お墓は遺骨を自然に返す営みの場です。壷から出して土に帰すことが多かったのですが、近年はそのまま納められることも多いようです。以前、何十万円もする骨壺に納められたのに、お墓は昔から土に帰す方式で、壷では納められないので結局骨壷は割られてしまったということがありました。
 私たちは、阿弥陀さまのおはたらきによってお浄土にうまれます。仏さまにさせていただきます。日頃からお念仏申して、私の行く先がはっきりしていると、棺や骨壺にこだわることはなかったと気付きます。

亡き人はどんなお姿で?  

  あるご葬儀に先立つ納棺のおり、葬儀社さんが亡き方に手甲、脚絆をつけておられました。そこで「浄土真宗のご門徒だから旅装束はいりません。式章をかけお念珠を持たせて差し上げてください」とお願いしました。
 私たち浄土真宗の者はお念仏者としてふさわしいお姿でありたいものです。
 お念仏を申す者は、お浄土に生まれ、ただちにおさとりを開きます。迷うことも旅をすることもありません。三途の川もわたる必要はありません。ですから「守り刀」「旅装束」「三角巾」「六文銭」も必要ありません。
 着物は仏衣でなくともお好きだった背広や訪問着、もちろんドレスでもいいのです。上からかけてさしあげるのもいいでしょう。
 真宗門徒の正装は式章にお念珠です。帰敬式を受けられた方や普段から式章をかけられていた方はもちろん、ご縁のなかった方も是非、門徒として式章をかけ、お念珠を持たせて差し上げてください。ただし、持ち物によって成仏が決まるのではありませんから、式章がなければ迷うというのではありません。
 大事なことは、常日頃からお念仏のいわれを聞かせていただいて、あれこれ迷わない人生、おさとりへの人生と気づかせていただくことがを大切なのです。阿弥陀さまのおすくいが確かだとはっきりした方にとっては旅支度は必要なかったとわかるのです。
 葬儀が華美になり、あれもこれもとサービスが行われ、請求にびっくりという話も聞きます。お念仏の中にあたたかいご葬儀をしたいものです。

浄土真宗では位牌は使わないのですか?

 そうです。本来、位牌は用いないのが私たち浄土真宗(本願寺派)のお仏壇のお荘厳です。過去帳を用います。
 でも、習慣的に「繰り位牌」置かれているお宅が多いのも事実です。
 少し位牌について考えてみましょう。
 位牌は中国の儒教の習慣から来ています。それが仏教でも使われるようになり、大事にされる宗派もあります。
 私たちは今生のいのちが終わったらどこに往くのでしょう。位牌に魂が宿るのでしょうか。仏壇に籠もるのでしょうか。お墓に籠もるのでしょうか。いいえ、お念仏申す者は浄土に生まれ仏になります。阿弥陀さまのお救いによって浄土に生まれさせいただきます。そして常に還ってきて私たちを導いてくださいます。ご本尊、阿弥陀さまと同じさとりをひらかせていただくのです。ご本尊さまに手を合わすとき、亡き方のおはたらきの中にお導きいただいたと気づかせていただきます。
 位牌があるとどうしてもそちらを拝んでしまいがちになります。私たちは亡き方を偲ぶものとして過去帳を用います。過去帳には亡き方のご法名を記します。ご法名は仏弟子、真宗門徒として生きた名乗りです。釋○○という亡き方の名を通してお念仏申しておられた姿、仏さまの教えを日々の仕事、生活に活かしておられた姿を偲ぶのです。その中で私自身のいのち、人生を見つめ、阿弥陀さまの願いを聞いてゆくのが仏事です。
 当地では他宗の影響もあってか、「繰り位牌」を用いることが習慣になっているご家庭が多いのが実情ですが、本来の姿に還ろうということから、いま過去帳への切り替えをお勧めしています。ご家族やご縁の方も手を合わせられます。仏さまの教えを聞く中でそうだなと気付いてゆかれれば過去帳に切り替えられてはいかがでしょう。ご相談下さい。
 尚、黒塗りの位牌は浄土真宗では用いません。

お寺の行事などに掲げられているカラフルな旗は何の旗ですか?

 仏旗といいます。仏旗とは、世界共通の仏教のシンボルともいえる旗です。
 二月十五日、お釈迦さまが入滅されるとき、体から美しい光を放たれ、青・黄・赤・白・はり・めのう等の光は、十方を照らしたとされています。そのため六金色旗(ろっこんじきき)とも呼ばれています。(他の説もあります)
 


スリランカを訪れた米国のオルコット氏が仏教徒となり、宗派を越えて仏教のシンボルの旗を考案されました。明治二十二年に日本に来られたとき、各宗派に紹介され、もちいられるようになりました。
 一九五〇年スリランカで第一回世界仏教徒会議が開かれたとき正式に「国際仏旗」として採択されました。
 仏旗を掲げるということは、仏教徒として自覚を表示することであり、広く十方世界をあまねく照らしとってくださる仏さまのお慈悲をあらわしているものです。大切な仏事には、仏旗を掲げて仏さまを敬う気持ちを示しているのです。
 日本で用いられる仏旗は二種類。青、黄、赤、白、樺及び輝き(すべての色の混合光)の六色のものと、旧タイプの緑、黄、赤、白、紫及び輝きの色の六色のものがあります。

浄土真宗では般若心経はよまないのですか?

Q 浄土真宗では『般若心経』はよまないのですか?
A 『般若心経』はよりどころの経典とはしていませんので読むことはありません。

『般若心経』は般若=智慧の完成を目指すことを教える経典です。お釈迦さまの大事な教えが説かれているのですが、煩悩を絶ち、真の智慧の完成しなさいと説いているのです。お経はお釈迦さまが私たちにさとりを得る方法と説かれたのです。私たちはその教えを聞いて実践してこそ意味があるのです。
 私どもは、お経を自分の欲望をかなえるために読むことはありません。亡き人の成仏を祈ったり、追善供養のために読むこともありません。お釈迦様の教えをいただくために読むのです。善導(唐の時代の浄土教学者)は「経教はこれを譬ふるに鏡のごとし」と教えてくださいました。お経は教えであり、鏡のようだというのです。経に説かれた教えをわが身の行い自分を映す鏡にしてください。
 お釈迦様は人の資質や能力の違いにそれぞれにふさわしい教えを説かれました。だから8万4千通りあるといわれます(八万四千の法門)聖者には聖者の道を、凡夫には凡夫の道を。私たちは法然、親鸞聖人の流れを汲むものです。自らの愚悪性に気づいて、煩悩だらけの凡夫には『般若心経』のような聖者の歩む道は困難であり、達成できない。凡夫にはそれにふさわしい教え(浄土に往生してさとりを開く道)をいただきます。それが浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)です。だから私たちは『般若心経』は読みません。

喪中ハガキは出すべきでしょうか?

Q、喪中ハガキは出すべきでしょうか。

A、死はケガレではないという観点から考えてみましょう。 

 喪中って何でしょうか。
 喪とは、人の死後、その親族が一定期間、世を避けて家に籠もり、身を慎むことです。死のケガレが他に移らないように慎むことが起こりです。挨拶を欠礼するのは年賀というおめでたい場に死穢が移らないようされるようになったものです。
 もちろん、悲しみの中にあってそっとしておいてほしいということからこういうご挨拶が行われることもありますが、そうであれば違う言葉が適当でしょう。
 死はケガレではないと気付かせていただいた私たちは、塩をまいたり、忌中札を掲げることはしなくなりました。
 死は誰にでも訪れるものです。念仏申すものは、死はそのまま浄土に生まれこの上もない尊い仏とさせていただくのです。
 通常通り年賀状を出されても構いませんが、寒中見舞いか、年内にご挨拶状を出されてもいいでしょう。

 案1、年末にご挨拶状
今年○月、父はお浄土に往生しました。淋しくはありますが、皆さまのお心遣いをいただき心温まる年末年始を迎えることとができます。・・・今後とも何卒よろしくお願い致します。

 案2、年賀状あるいは通常ハガキで
新年のご挨拶を申し上げます。(寒中お見舞い申し上げます)昨年○月、母がお浄土に往生いたしました。淋しいお正月となりましたが、母もお浄土から私どもの人生を心配し温かく見守っていてくださいます。・・・本年もよろしくお願い申し上げます。

 世間での常套句、常識もお念仏の教えに照らして考えてみましょう。

法 事

最近事故に遭いました。ご先祖が怒っておられるのでしょうか。

質問 最近事故に遭いました。ある方に観てもらったら、法事をしていないからだと言われました。ご先祖が怒っておられるのでしょうか。

答 ご先祖と事故とは因果関係はありません。法事をしていないから災難に遭うとは因果関係を理解しない人の発言です。「因果の道理をわきまえよ」というお釈迦さまの教えに背くものです。
 ご先祖が子孫に災いを及ぼすでしょうか。いいえ。亡きかたがたは尊い仏さまになって私たちを心配してくださっています。事故にあったり病気になったりする私たちに、代われるものなら代わってやりたいとさえ思っておられるのではないでしょうか。一緒になき、悲しんでくださってくださいます。
 不幸の原因を先祖に求めることとは、子孫としてもっともしてはいけないことではないでしょうか。先祖を悪者にしないでください。
 法事はご先祖の方々が、どうか正しい教えに出会ってほしい。仏法に出会ってほしいというご催促です。ご先祖の願いを聞き、仏さまの願い,
正しい教えを聞かせていただきましょう。

法事の日を遅らせてはいけませんか?

 一般に「法事は遅らせてはいけない」というのは、うっかりしてご法事を忘れるようなことがあってはならない、早めに考えるようにという戒めとして、昔の方々がおっしゃったことです。遅らせたからといって何か災いがあるとかいうことではありません。
 ご法事は“亡き人を偲びつつ、あとに残る縁ある人たちがお経をいただき、仏さまの教えとお心をいただく”ということです。できればご命日にしていただきたいのですが、なるべく集まりやすい日に設定することもご縁を作る意味では大事でしょう。ご法事の大切な意味をお分かりであれば、若干早めても、遅らせてもかまいません。
 なるべく祥月命日を中心にして、ご縁の方々が集まりやすい日を選びましょう。仏さまのみ教えを聞くことを一番に、ご予定を立てましょう。

法事を忘れていたのですが、どうしたらいいでしょう?

 「○○回忌を忘れていたのですが」と心配そうなおこころでのお電話をいただくことがあります。ご先祖が立腹されて祟るとか、罰を当てるというようなことは一切ありません。忘れていたからといって怒るような心の狭い仏さまは、仏さまではありません。
 忘れておられたことを、思い出されたのですから、きちっとご法事をすればいいのです。
私たち浄土真宗のご法事は、亡き方を供養して差し上げたり、祟らぬように先祖を慰めるのではありません。ご法事はすでに仏さまになっておられる亡き方を偲びつつ、仏さまの教え()を私たちが聞かせていただく仏です。
 ご法事は、「阿弥陀さまにであってねという亡き方の御催促」と表現された方がありました。いろいろなことで不安や心配のある私たちに、「心配ないよ、お念仏申してお浄土への歩みをしてくれよ」という阿弥陀さまの願いを聞くご縁です。

ご法事は何回忌に勤めるのですか。

 当地(山口県宇部地域)では、ご法事は、1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、25回忌、33回忌、50回忌、のち50年ごとに勤めるのが一般的です。
 地域によっては23回忌、27回忌、あるいは37回忌をお勤めするところもあります。地域によって違います。またこれらの数字には諸説あります。
 お隣の国韓国では、法事は毎年お勤めします。大変尊いことです。祥月のご命日に亡き方を偲び仏さまのお心を聞く仏縁ですから、本来毎年勤めるべきでしょう。そのところを、私たちは何年おきかにしているのです。
 丸一年が一周忌。亡くなられた年を数えて3回目のご縁、つまり丸二年が3回忌‥と数えます。

四十九日の法要が3ヶ月にわたってはいけないんですか?

 三ヶ月にわたっても大丈夫です。なるべく四十九日に近い日を選びましょう。
「四十九日が三月」→「始終、苦が身に付く」という単なる語呂合わせから、三ヶ月にわたってはいけないという迷信が生まれたようです。しかし、月の後半に亡くなられれば、必ず3ヶ月にまたがります。
 四十九日は、もともと、お釈迦さまがさとりを開かれて、49日の間一週間ごとに場所を移られ、おさとりの内容を反復され、その縁の深さを確かめられたことに由来します。
 私たちにとっては、七日ごとにお釈迦さまのご説法、亡き方のご説法に遇わせていただく尊いご縁なのです。
 また仏さまの教えを聞かせていただくなかで、遺族の悲しみが癒えてゆく大事な期間でもあります。
 迷信に振り回されて大事なご縁を失ってはなりません。亡き方は仏さまになられて私をお導きくださいます。

お念珠が切れたのです。何か災難でも起きるのではと心配なのですが。

念珠の紐が切れることと、災いは全く関係ありません。
 お念珠は使えば使うほど切れるものです。切れたということはあなたがよくお参りされた証拠です。
 靴の紐が切れたり、お念珠の紐が切れたりして、何かが起こる…。テレビドラマなどでよく見られる設定ですよね。でもあれは演出。本来、因果関係は全くないことです。お釈迦さまは因果の道理を見極めなさいとお示し下さっています。
 お念珠は使えば使うほど紐が玉の角で擦れて切れやすくなります。使わないお念珠は切れようがありません。切れないということはお参りしてないんでしょうね。
 住職のお念珠は何度も切れています。切れたら仏壇屋さんなどで修理してもらってください。その時、紐の色を変えたりするのも気分が変わっていいですね。大事に使ってください。

葬 儀

葬儀を簡素に行いたいのですが、どういう葬儀がいいでしょうか?

 荘厳段(祭壇)のないご葬儀はいかがでしょう。
 ご自宅では、仏壇を中心にその前にお棺、お花が一対あれば見事なおかざりです。
また、お寺では金色に輝くお内陣の前にお棺、両側にお花があればこれほどのお荘厳はありません。
 ご葬儀は、見栄で行うものでもなく、会葬者のために執り行うものでもありません。遺族、親族、そして縁あった人が共に亡き方を偲び、亡き方の願いを聞き、阿弥陀さまの願いを聞く仏縁です。自らのいのちを見つめる仏縁でもあります。阿弥陀さまが安置してあれば十分なお荘厳です。
 近年、葬儀も結婚式もどんな儀式も派手になりすぎています。演出、サービス・・・本来の意味が失われているのではないでしょうか。義理や体裁で執り行うものではなく、簡素な中にも厳粛かつ心のこもったものにしましょう。いつでもご相談下さい。

通夜の荘厳(蓮光寺お内仏)
通夜の荘厳(蓮光寺お内仏)

葬儀の荘厳(蓮光寺本堂)
葬儀の荘厳(蓮光寺本堂)

お 墓

お墓を建てないといけませんか            

お墓を建てなくてもいいといったら驚かれるかもしれませんが、浄土真宗の盛んな地域の一部には家々のお墓のないところもあります。大谷本廟(京都親鸞聖人の廟所)にお骨をおさめ、個人的な墓を持たないのです。

誰でも納骨できるお墓をつくりました              一処廟

 蓮光寺では蓮光寺門徒ならどなたでもお骨をおさめることのできる一処廟を建立しました。お骨は壷から出して自然に帰るようにします。蓮光寺が続くかぎり住職が管理者として維持してゆきます。
 お願い
仏法が伝わるよう永代経懇志を納めること。
年間管理費として毎年2、000円納めること。
一旦おさめるとお骨をとり出せません。
蓮光寺門徒(門徒会費4000円/年)の方。
様々な仏縁を大事にしてください。

本堂に一番近いところに建てられた一処廟
本堂に一番近いところに建てられた一処廟

姓の違う人のお骨を納めてもいいですか?

 いいです。
 お浄土は倶会一処、どんな人も、どんな姓も、家をも超えて仏となり、生まれるところです。私たちは「釈○○」と法名をいただきます。それぞれの家を超えて、お釈迦さまの弟子にしていただきました。○○家を超えて釈尊の家に入れていただいたのです。お浄土は怨むものも親しきものも、縁あるものも無きものもともに生まれるところです。
 ご縁の方はどなたも納骨されてかまいません。ご親族、住職と相談され、皆さんがともに教えを聞き、ご理解を得られた上で納骨されることをお勧めします。そしてどんな人も生まれるお浄土の教えをいただき、遺族が共々に分け隔てなく、わだかまりを超えて人間関係を築いてゆくことが大切なのです。

お墓の正面には何と刻んだらいいですか?

 これからお墓を建てようと思われる方は、正面には「南無阿弥陀仏」もしくは「倶会一処」と刻みましょう。
 「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」は仏さまです。声となって私に届くお名号(みょうごう)とよばれる仏さまです。正面にこう刻むことで、お墓でお参りするときも阿弥陀さまのおはたらきを味わうことができるからです。亡き方もこの阿弥陀如来さまのお救いによってお浄土にお生まれになっておられます。
 「倶会一処(くえいっしょ)」とは『阿弥陀経』の一節です。「倶(とも)に一つ処(お浄土)で会えるね。」という意味です。お念仏いただくものはすべてのわだかまりを超え、枠を超え、どんな人もお浄土で会える尊さを表したものです。

お名号(南無阿弥陀仏)を刻んだお墓
お名号(南無阿弥陀仏)を刻んだお墓

お 寺

お寺にはいつ行ったらいいの?               うれしいときもお寺へ

 どんなときもお寺に来てください。
葬儀や法事をはじめとする身近なひとが亡くなられたご縁にお寺を思う方は多いことでしょう。そんな時はもちろんですが、うれしいときもお寺を思い出してください。阿弥陀さまはいつも私を照らしてくださいます。お寺では赤ちゃんの初参り(初参式)新入生のお祝い、結婚式なども行います。また喜寿や米寿といった人生の節目、銀婚式、金婚式などよろこびのご縁にもお参りして阿弥陀さまのはたらきの中によろこびをご一緒したいものです。

浄土真宗のお寺と他宗派のお寺とはどこが違いますか?        教えを聞くお寺

 お寺(真宗寺院)の本堂に入ってまず目につくのが、畳が敷いてあるところがとても広いことでしょう。外陣(げじん)と呼ばれるところです。中には椅子席のお寺もあります。これは多くの他宗のお寺がお坊さんの修行の場としてできたお寺なのに対して、浄土真宗のお寺は、門徒の聞法の場であるからなのです。
 「教えを聞くところ」それが浄土真宗のお寺の特徴です。

お寺(真宗寺院)のはじまりは?                    道場の成立

 当地(山口県)には蓮如上人のお弟子や孫弟子にあたる僧侶によって教えが伝えられました。室町時代中期のことです。僧侶は自ら建てた小さな庵に住んだり、民家に間借したりして教えを広めていたことでしょう。さらにその教えを聞いた人の中には、率先して自宅を開放し、人々が教えを聞く場を提供する人もありました。ご法話のあるときはご本尊(名号本尊/ご絵像)が安置され近隣の人々が集まってきました。多くの人が集まると、建物は手狭になり、民家は拡張されてゆきます。そうやって成立した教えを聞く場を道場といいます。聞法の道場です。これが浄土真宗寺院の源流です。

お寺になったのは?                      浄土真宗寺院の成立

 早くから伽藍を整備し、○○寺と名乗ることを許され、地方の教えの拠点となったお寺もわずかはありました。しかし当地(山口県)のほとんどのお寺(真宗寺院)は江戸時代はじめに寺院となっています。秀吉の刀狩りによって兵農分離がなされ、江戸時代に身分が固定化されると道場主の多くは坊主となって専門的に教えを伝える役割を担うようになります。道場はより多くの人が集まりお話が聞けるようにと門徒の志と労力によって伽藍として整えられます。そしてご本山から阿弥陀如来さまが下付され、寺号を名乗る許可を得て寺院が成立しました。

お寺は誰のもの?

 お寺はご門徒みんなのものです。
阿弥陀さまの前で教えが聞きたいというご門徒の方々が志と労力を出し合ってつくったお寺です。あなたのご先祖が、自分だけでなく、子孫にも尊い教えを聞いてほしいと願って残してくれたのがお寺なのです。あなたのお寺です。

法 名

法名って何ですか?

 法名は、仏法に生きる者の名乗り、教えを聞いて人生を歩んでいこうとする者の名前です。
「釈○○」これが浄土真宗本願寺派で定められている法名です。
 「釈」はお釈迦さまの弟子という意味です。「○○」は教えに生きるものとして、よりどころとするお経、聖典などから選ばれた、仏教的な味わいのある名前です。
 死後の名前ではありません。今を生きる私の名前です。

法名が二字とは短い気がするのですが?

 法名は二字です。宗祖が「釈親鸞」中興の祖が「釈蓮如」と名乗ったように、私たちも「釈○○」と名乗ります。お釈迦さまは平等のこころを説かれ、親鸞さまは御同朋、御同行の心で教えを説かれました。仏教は人に優劣をつける教えではありません。「釈○○」の名乗りは、そのお心をいただいて生きる証でもあります。
 長いから偉いのでありません。二字だからこそ尊い、お釈迦さまの教えに生きる尊さの名乗りです。
 帰敬式を受けると、ご門主さまより右のような法名をいただきます。
 釈は釈尊の弟子の意味です。左には「本願寺派門主 釈即如」のご門主さまの署名、印があります。

法 名
法 名

法名は誰につけてもらうのですか?

 浄土真宗本願寺派では、帰敬式を受式し、ご門主(西本願寺住職)さまより法名をいただきます。京都のご本山西本願寺では毎日行われています。また特別な場合には地方寺院でも帰敬式が行われることがあります。おかみそりをされるのは、ご門主もしくはご一門のご代行に限られます。門徒であればできるだけ早く法名をいただき、教えを聞いて人生を歩んでゆきたいものです。
 山口別院では毎年秋の報恩講の折り11月25日に特別に帰敬式が執り行われます。
 なお、生前に法名がいただけなかった場合に限り、ご門主にかわって住職が法名を授けます。

お彼岸

お彼岸って何? どうすればいいの?

 彼岸花が咲き始めると秋のお彼岸がやってきます。お彼岸に何をされますか?
 お墓参りと答えられる方も多いでしょう。でもお墓参りだけ? 真宗門徒としてすべきことをともに考えてみましょう。
 彼岸とはさとりの世界、お浄土のことです。阿弥陀さまのお国、亡き方がお生まれになり、私たちを救おうとされるはたらきの出ずるところです。お彼岸にはそのお彼岸のおはたらきはどんなものか、お浄土とはどんなところかを聞かせていただかなければなりません。
 ですから、お墓参りも大切ですが、お寺のお彼岸法要に参拝し、お参りの方々と一緒に手を合わせお勤めをして、お念仏のお話、お浄土のお話、阿弥陀さまのお話を聞かせていただくことが大切なのです。亡き方のお浄土からのお導きに遇わせていただき、我が身の行く先を聞かせていただきましょう。

 お彼岸の過ごし方
  1、お仏壇のお掃除をしましょう。
  2、お仏壇の阿弥陀さまに手を合わせ、お念仏しましょう。
  3、お寺の彼岸会法要にお参りしましょう。
  4、仏さまのお話を聞きましょう。
  5、お墓にお参りされたときは、亡き方を偲ばせていただき、お生まれになった彼岸(お浄土)のことに思いをめぐらせましょう。

お 盆

お盆には、迎え火、送り火をするのですか?

 真宗門徒にとっては送り火、迎え火は必要ありません。
 お念仏申す人生を歩まれ、往生された方は、浄土より還って、常に私たちをお導きくださいます(教章参照)。
 亡き方はお盆の3日間だけしか還ってこられないような仏さまではありません。お迎えをせずとも、いつも私を案じてはたらいてくださるのです。

仏前に盆提灯を置かないといけませんか?

 迎え火/送り火としての盆提灯(盆灯籠)は置く必要はありませんが、お灯明として置かれるのなら結構です。
 私たちは迎え火/送り火をしませんから、その意味で置かれるなら不要です。ですからわざわざご自身でお買い求めにならずとも結構です。
 しかしご親戚やご縁の方からいただかれることもあろうと思います。その場合、先方さまのお心をいただき、お灯明としてお供えしてはいかがでしょう。
 ろうそくや輪灯と同じように、そのあかりは仏さまのすくいの光のごとく、わたしを照らしてくださいます。
ご質問承ります。遠慮なくメールにてどうぞ。
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