蓮  光  寺

  ともに いのち かがやく 世界へ      浄 土 真 宗 本 願 寺 派    

     いのち見つめるお寺       見つめよういのち、見つめよう人生。教えに遇い、仏さまに遇い、自分に遇う。

仏のすがたとこころ

空也上人像

 かつて平清盛が政権を取った京都六波羅、そこに六波羅蜜寺というお寺があります。経を読む清盛像のとなりに空也上人像があります。空也上人は平安時代の中頃の僧侶で、口には常に念仏をとなえ、橋を架けたり、道を直したり、井戸を掘るなど、常に人々とともにあったお坊さんでした。市聖、阿弥陀聖とも敬われました。鎌倉時代に作成された空也上人像は、運慶の四男 康勝の制作によるものです。わらじ履きで、鹿の角の杖をつき、首から下げた鉦をたたいている姿です。口からは針金でつながれた六体の小さな阿弥陀仏が出ています。南無阿弥陀仏の六字が阿弥陀さまになったということを表しています。空也上人はお念仏を市井に広められた先駆者です。
 親鸞聖人は阿弥陀さまのご本願に誓われたお念仏であることをあきらかにされました。私たちが称えるお念仏は阿弥陀さまのおはたらきが私の口に届いたものです。お念仏申すとき阿弥陀さまが一緒です。

唐招提寺千手観音像

 千手観音は、千手千眼観音とも言います。千の手の一つひとつに眼があるからです。千の眼であらゆる方向から私をご覧になります。私の苦しみや悲しみ、愚かさや欲深さ、傲慢さを見通してくださいます。千の手には色々な持ち物があります。経典や教えのシンボルの法輪、太陽や月、さらには矢や剣、鉾や斧までもっておられます。様々な手だてを以て私を仏法に誘い、仏道を歩ませ、仏のさとりに至らせたたいとはたらいておられるお姿です。
 千の手は私の願いや欲望を叶えてくれるためにあるのではありません。
 私はこの仏さまの前に来ると、これほどまでに仏さまにご苦労をかけたのかと頭が下がります。千の手だてをもってしても救い難い私であると気付かせていただきます。
 千手観音などの密教の仏さまはヒンドウー教の神々が仏法の守護の仏として取り入れられたものです。
 お念仏申す私たちをあの手この手でよろこびまもってくださる仏さまです。

東大寺戒壇院四天王像 広目天

仏のすがたとこころ    真宗門徒の拝み方

南無阿弥陀仏をとなふれば四天大王もろともに 
よるひるつねにまもりつつよろづの悪鬼をちかづけず

親鸞聖人は念仏申すものをまもり、悪鬼を近づけない仏さまとして四天王をとらえておいでになります。まもるとは、病気や災難に遭わないというのではありません。他の宗教や仏教の異なった考え方(他派)からの非難にも破られることはなく、天魔や悪鬼になやまされることがないということです。
 東大寺戒壇院の四天王像は拝む人を圧倒する迫力で迫ってきます。特に広目天の眼差しは心の中までをも見通すかのようです。この像の前にたたずむと、己の煩悩も醜い心も、嘘も偽りもすべて見通されているかのようです。
足下には仏法に仇をなす邪鬼が踏まれています。邪鬼とはいったいだれのことでしょうか。他を傷つけ、仏法をあれこれ批判する私、罪悪深重、煩悩熾盛のこの私のことでしょう。

五劫思惟阿弥陀坐像

 奈良の五劫院。ご本尊は阿弥陀如来、それも五劫思惟阿弥陀とよばれる仏さまです。
 二メートルのお座りになった阿弥陀さま 。お顔はふくよかで、螺髪と呼ばれる髪の毛は伸びに伸びてお顔を被わんばかりです。
 珍しい仏さまです。なぜそんなに髪が伸びたのか。それは阿弥陀さまは法蔵菩薩とよばれる時、すべてのいのちを救い、仏さまにさせるためにどうしたらよいか五劫というとてつもなく長い間考えに考えられました。五劫。一劫とは、縦横高さ四十里のとてつもなく大きな硬い石がある。百年に一度天女が降りてきて羽衣でなでます。また百年したら一回なでます。それを繰り返し、石が摩擦でなくなる時間を一劫といいます。その時間を五倍したのが五劫です。五劫の思惟を重ねて髪が伸びたのです。そののご苦労をあらわす像です。お正信偈に五劫思惟之摂受とあります。
 これほどの長さは何をあらわすのでしょうか。ある方は思案の頂上といわれました。最高のものを考えられたということでしょう。考えに考え抜かれ、あらゆる修行の中から選びに選んで私が仏になるためのお念仏を選びとられたのです。お念仏ははそこまでして出来たものです。もう一つ、そこまで思案をかさねなければ救われない私の罪深さを示すものです。罪深い私が阿弥陀さまにご苦労をかけているのです。私のためにご苦労いただいている阿弥陀さまのお姿でした。
 親鸞聖人は「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」とおっしゃっています。 南無阿弥陀仏


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