蓮  光  寺

  ともに いのち かがやく 世界へ      浄 土 真 宗 本 願 寺 派    

     いのち見つめるお寺       見つめよういのち、見つめよう人生。教えに遇い、仏さまに遇い、自分に遇う。

一言法話

おにぎりひとつ

 おにぎりひとつ
 粗末にすれば
 世界のどこかに
 おにぎりひとつ
 足りない人が
 必ずできる
 本当だ    河野 進
このおにぎりを私がどういただくかという問いかけです。目の前にあるおにぎりが世界と直結しているのです。私が今ひとつひとつのものを大切に扱い、感謝することも世界につながっているのです。


生きる

  生きる 
       中川静村

生かされて 生きてきた
生かされて 生きている
生かされて 生きていこうと
手をあわす 南無阿弥陀仏
このままの わがいのち
このままの わがこころ
このままに たのみまいらせ
ひたすらに 生きなん今日も

あなかしこ みほとけと
あなかしこ このわれと
結ばるる このとうとさに
涙ぐむ いのちの不思議


 中川静村さんは、晩年、癌を患いながら奈良県立医大のベットの上で、これまで綴ってこられた詩を集め「そよ風のなかの念佛」という名の詩集を纏められました。この「生きる」という詩はこれに載っています。ベッドの上で生かされてきたと気付かれ、そんないのちをお念仏申す中に生きていこうといわれます。浄土真宗は、煩悩を断ち切って救われていくのではなく、煩悩を抱えたこの身「このまま」で、お念仏によって救われていく教えです。そのままの救いです。しかし、そのまま救うと願われた私は、欲望のままに生きていればよい、ということではなく、このままではおれない、少しでも仏さまの願いに応えるような生き方を、ひたすらに生きていこうと言われます。こんな身であっても必ず救うという仏さま、もったいなく、かたじけなく有り難いとおっしゃいます。

阿弥陀さまが救うのは悪人である私


阿弥陀さまが
お救いくださるのは悪人です
悪人とは
煩悩を抱えて自分の力では
生死を解脱できない
私自身のことであります
         戸須覚了
戸須覚了は私の祖父、米寿を迎え人生最後とおもって安居会読に出席した。問者が「悪人正機というご論題は何を明らかにされようとしているのか」と問われ答者である祖父が答えた言葉。

摂取してすてざれば


 十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなわし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる



すべての世界の『念仏のいのち』をご覧になり、おさめ取り、決して捨てることのないおはたらきであるから阿弥陀ともうしあげるのです。

大きな悲しみ 苦しみ

大きな悲しみ
苦しみの中には
必ずそれと同じくらいの
いやそれ以上に
大きな喜びと幸福が
隠されているものなのです

抱えきれないほどの
悲しみであっても
いつかそれが
人生の喜びに変わる時が
きっと訪れます
深い悲しみ
苦しみを通してのみ
見えてくる世界があることを
忘れないでください

そして
悲しむ自分を
苦しむ自分を
そっくりそのまま
支えていてくださる
大地のあることに
気付いてください
       平野恵子


鏡に映るものならば



 わが心
  鏡に映るものならば
   さぞや姿の
    みにくかるらん
        田辺 親子
「経教はこれをたとふるに鏡のごとし」(善導大師)お経は教えであって、鏡のようなものである。教えにふれて見えてくるのは、私の心。いつわらない本当の我が心に出会うことが仏教の出発点です。

セトモノとセトモノと

セトモノとセトモノと
ぶつかりっこすると
すぐこわれちゃう
どっちかやわらかければ
だいじょうぶ
やわらかい心を持ちましょう
        相田みつを


「触光柔軟」…阿弥陀仏の光明に触れる者は身心がやわらかくなる。やわらかなる仏様の心に触れ、自然とやわらかくなるのです。セトモノ」になっていた自分に気づかされ、その心が解けるのです。

忙しい人の前には


 嬉しい 
 花が見えるようになった
 忙しい人の前には
 花は咲かない
         大野 勝彦
大野さんはトラクターを清掃中に両手を挟まれ切断。以来義手で絵と詩を綴るようになった。「花はいっぱいあったんでしょうけど、私は気づかなかった。」畑のそばの草花にはじめて気づいた。


心に光が入るのは


 心に光が入るのは

       耳から

      ヘレンケラー


ある人がヘレンケラーに質問した。「目と耳と口、どれか一つを神様が正常にしてくれるとするなら、どれを願うか」と。ヘレンは「耳」だと答えた。なぜなら「心に光が入るのは耳からだから」と。

病によって得たもの


  
 病によって
 失ったものを悲しむより
 病によって
 得たものを喜びたい 
         村上速水
  
脳梗塞で倒れ、当初は言葉も失われた村上先生。やがて医師から教わり、お念仏が出るようになる。病の中で気づかされること、だからこそ得られたるものも多い。病の中で得たものを喜びたい。

慈悲の中

  
   なやむこと
   悲しむことも
      慈悲の中
 


お正信偈に「大悲無倦常照我」とあります。阿弥陀さまのお慈悲は常に我を照らしてくださいます。悩んでいるときも、悲しみのうちにあるときもどんなときもお慈悲のまっただ中です。

老も死も避けることのできない私の荷である

 老も死も
 避けることのできない
 私の荷である
 この荷は予想以上 
 厄介な重い荷のようである
 しかし この荷が
 今まで見る事のできない
 世界を見せて下さる
老、病、死、私たちは避ける事の出来ない重い荷を背負っている。お釈迦様はこれを苦と教えてくださった。誰もかわって背負ってくれない重い荷。だからこそ、その荷がその人のみに、初めて見せてくださるものがある。


天地総力をあげての


 私一人を
 生かしている背景に
 天地総力をあげての
 おはたらきがある


私一人を生かすためにどれほどのいのちがかかわっているだろうか。天地のいや全宇宙のはたらきが私を支え、生かしてくれている。このいのちの尊さに目覚めよというのが縁起の教えである。

大地のありて



  受けとめる
   大地のありて
       椿落つ
      
      武内洞達
どのような最後であろうとも、どんな咲き方、散り方であってもそれを問うことなく大地は必ず受けとめてくれる。大地があるからこそ精一杯咲いていける、そして散っていけるのです。

水よく石を穿つ

 至りてかたきは
      石なり
 至りてやはらかなるは
        水なり
    水よく石を穿つ
        蓮如上人


最も堅いものは石であり、最も柔らかいものは水です。でもその水が石に穴を開けるのです。柔らかな仏の光、慈雨のようなおはたらきによって、堅い石のような我が心もとかされるのです。

掃けば散り


 掃けば散り
   払えばまたも
      塵積る
  人の心も
    庭の落ち葉も
はいてもはいても次から次へ落ちてくる落ち葉。私の心の煩悩も同じ、次から次へ。そんな私をお見通しで阿弥陀さまは南無阿弥陀仏をわたしに届けてくださいます。「罪の人々み名を呼べ」と。


正義が人を傷つける

人はそれぞれ正義があって
争い合うのは
仕方ないのかも知れない
だけど僕の正義がきっと
彼を傷つけていたんだね
        Fukase


人はそれぞれものさしが違う。時代によっても価値観は変わる。正義もそうだ。正義もそれぞれ違うのだろう。そんな正義を振りかざすとき、傷つく人がいる。そんなことに気づいていた方がいい。

往き先



 行き先が分かれば 
   行き方が分かる

 往き先が分かれば 
   生き方が分かる
行き先のわからない航海は漂流。どこに行くか、行き方もわからない。この人生の先の往く先がお浄土とわかるとき、今の生き方もわかる。お浄土へ生まれるいのち、仏になるいのちを生きる。

浄土

 浄土は
 死んでからの問題ではなく
 今の私に
 真実の生き方を呼び覚まし
 真実に生きる方向性を
       示してくれる


お浄土はさとりの世界。自ら覚るとともに、他を覚らせる世界。煩悩に染まらない世界。そんなお浄土を真の宗として生きるのが浄土真宗。今の生き方の方向性を示してくれるのがお浄土。

苦しみ

  なければ
    ないで
     苦しみ
  あれば
    あるで
     苦しむ 
「田あれば田に憂い、宅あれば宅に憂う。田なければまた憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂えて宅あらんことを欲ふ」何から何まであればあったで悩みの種。なければないで苦しい。


今をもらって生きている

 死に向かって
 進んでいるのではない
 今をもらって
 生きているのだ

 いのち日々あらたなり
       (鈴木章子)


「今ゼロであって当然の私が今生きている」ガン告知をうけた鈴木さん。あと何日という生き方から、新しい命を毎日いただいて生きているとの転換がありました。引き算から足し算への転換です。

死を考える



 死をしっかり
 考えるということは
 今を一生懸命
 生きることだ
        有国遊雲
15歳、小児ガンで亡くなった遊雲君の言葉です。息子の死を見つめた父智光さんは、死を見つめ、最後に浮かび上がってきたものは生きていることでしたと言います。死を見つめることで生きることが見えてくる。

ほめる言葉

 悲しいのは
  人を責める言葉
 素晴らしいのは
  人をほめる言葉
 南無阿弥陀仏は
  仏さまをほめる言葉


人を責める言葉は悲しい。でもほめるのも難しい。私の言葉は皆煩悩に染まっているから難しいのです。煩悩だらけのこの口に、阿弥陀さまは仏さまをほめる言葉を届けてくださいます。

どんなことも無駄にしない


 どんな物事も
 無駄にしない生き方が
 お念仏の人生である
       大谷光真
自分が良いと思うものだけを取り上げ、悪いと思うものを切り捨てるのではなく、どんなことも私に仏法,お念仏を勧めてくださる大切な縁と受け取ることができれば素晴らしいことです。


浄土にて かならず


 
  浄土にて
   かならず
   かならず
  待ちまいらせ
  そうろうべし
      親鸞聖人
親鸞聖人は晩年あるお弟子にあてて手紙を書かれた。「私は歳をとった。きっと先に往生するでしょう。お浄土でかならす待っております。あなたもお念仏申してお浄土へ生まれてきてください。」と。

生まれ往く

お念仏申すものは、今生の縁つきるときお浄土に往生する。往生とは往き生まれること。死んでゆくのではない。「娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをわるときにかの土へへはまゐるべきなり」歎異抄
 
  死んでいく
   のではない

  お浄土に
   生まれゆくのだ


私に宿った如来


  念仏は
  私の上に宿った
  如来である
      梯 実円


みすぼらしい姿の人が小声で念仏していた。法然上人が弟子にたずねた。あの者の念仏と私の念仏のどちらが功徳があるかと。弟子は上人のお念仏でしょうと。法然さまはどちらも一緒だ、ともに如来が届いたのが念仏だからと。

生きさせて参る浄土



  わたしゃ、幸せ
  死なずにまいる
  生きさせて参る浄土が
  なむあみだぶつ
        浅原才市
妙好人と呼ばれた浅原才市。お浄土へは「死なずにまいる」「生きさせて参る」と。死んで参るのではない、この世を生ききってそのまま生まれゆくのがお浄土だと。お浄土が今の私の生かすのだ。

お浄土があるから


  お浄土があるから

     生きてゆける


お浄土はさとりの世界、仏になる世界。仏となって直ちに今生に還ってあらゆるいのちにはたらくはたらきをする。そこはまた懐かしき方と会える世界。そんなお浄土があるから、今生きてゆける。

満ち足りたもの



  足りないものは
  音を立てるが
  満ち足りたものは
  全く静かである
        釈 尊
「愚者は半ば水を盛った瓶のようであり、賢者は水の満ちた池のようである」と言われる。どうでもいいことをはじめ、不平に不満、愚痴や怒り、さとりとは真反対の生き方しか出来ないこの私。

私である


 私が私であることを忘れて
 他人と比較して
 一喜一憂する人生に
 これでよしという
 世界はありません
        山崎龍明
私はいつも周囲と比較して生きています。自分の性格も持ち物も、家も車も。阿弥陀さまの光に照らされたとき、比較しなくていい、いのちそのもので尊く輝いているよ気づかせていただきます。


寄り添う

私たちは唯一、自分が経験していないことも、想像をしてみることができる生き物です

ですが同時に、経験した方と全く同じようには、分かることのできない生き物です


悲しみに思いを寄せ、寄り添うことができるのは私たち人間のみです。しかしそれは不完全であることも確かです。そんな私の悲しみを本当に我がこととしてくださるのは阿弥陀さまです。

世界平和


すべての人々が
煩悩具足の凡夫である
ということを
本当に自覚させられたとき
そこに世界の平和が
実現されると確信します
    アドリアン・ペル
アドリアン・ペル師は欧州最初の真宗寺院、ベルギーの慈光寺住職。得度に来日された折、あるご法座で「世界平和についてどうお考えになりますか?」との質問に答えらた言葉である。

未来への責任

 信の人は
 未来に対して
 責任を
 とらなければなりません
  アルフレッド・ブルーム


「伝えられたものを、純粋なままに次に伝えてゆくという責務を負っている」とブルームさん。仏さまからの賜り物を自分色に染めたり、ゆがめたりしてはならない。後の人に正しく伝える責務がある。

露の世は


  露の世は
  露の世ながら
  さりながら
        小林一茶
幼い娘を亡くし「露のよとはわかっていた……そうなのだけれども、……。」と。「さりながら」とは無常とわかりながらも、自分よりも先に命終えていった娘の死を受け入れがたい一茶の心情です。

    →法話 さりながら
    →法話 さりながら

兵戈無用


  兵戈無用

 軍隊も武器もいらない
         釈尊


釈尊はこうおっしゃった。「言い争う人々を見よ杖を執ったから恐怖が生じたのである」杖とは武器のこと。守るための武器は存在しない。相手を殺し威嚇するためにのものが武器。兵戈無用。

支えてくださる大地



 悲しむ自分を
 苦しむ自分を
 そっくりそのまま
 支えていてくださる
 大地がある
        平野恵子
老、病、死。これらは人として避けられない現実。でもそれらに悲しみ、苦しみ呻く私たちを支えてくださる大地がある。決して落とさない。浄土に生まれさせてくださる阿弥陀さまがおられる。

ケモノの心


 私は時に
 ケモノの心おこることあり
 そのときも
 人間の顔してくらしている
 
         榎本栄一


「いかり、はらだち、そねみ、ねたみむこころ多く」まるで野獣のようなこころの持ち主てある私。縁あればたちまち表にも出てくる。そんな私であることに気付かせてくださる阿弥陀さま。


  自分のことしか
  考えられない人を
  鬼という
すべてのいのちはつながっている。今の様々ないのちだけではありません。私の生き方は、子孫の生き方にもつながるのです。未来に責任を持ったいのちであることを自覚したいものです。


明日死ぬと思って



 明日死ぬ
    と思って生きなさい
 永遠に生きる
    と思って学びなさい
    
   マハトマ・ガンディー
今日のこのいのち、今日の出遇いは、二度とない最後かもしれないと大事にして生きる。しかし同時に、私たちはこの身このままではないけれど、浄土に生まれ永遠に生きるいのちでもあるのだ。

ものさしを問う


  自分の
    モノサシで問う
       のではなく 
  自分の
     モノサシを問う


人はそれぞれの価値観を形成する。それぞれにものさしが出来る。ところがそのわがものさしを振りまわし善悪にとらわれ、人も自分も傷つけている。仏法はその自分のものさしを問うのだ。

かえる世界



 人生は旅そのもの
 旅であるからには
 帰る世界を
 持たねばならぬ
人生は旅である。旅を終えて帰ってゆくところが私たちに本当にあるだろうか。お浄土が帰るところであり、今を支えてくれるよりどころと確かにわかったとき、今の旅が本物になる。

悲しみのむこう


 死の別離の
 悲しみのむこうに
 大いなるふる里の
 灯が見える
     鈴木章子


お浄土に生まれるとは言え、悲しみは消せない。しかし悲しみの中にありながらも、「いのちのふる里、お浄土に生まれさせていただく、そんな如来さまの光をめざして歩んでほしい」と願われる。

ごめんなさい

失敗したり、忘れ物をしたり、時間に遅れたとき、言い訳ばかりしてなかなか「ごめんなさい」という言葉が出ない私。自分の状況はどうであれ相手に迷惑をかけたのなら「ごめんなさい」それだけ。
ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい
それが素直に言えない私です
一生涯かかります
ごめんなさい


正しいことを言うときは

正しいことを言うときは
少しひかえめに
するほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
         吉野弘


正しいことも人を傷つけるし、振りかざせば武器になる。私の思っていることが本当に正しいとも限らない。親鸞聖人は「よろずのことみなもってそらごとたはごとまことなることなきに…」とおっしゃった。

生を受くるは難し



 人の生を受くるは難く
 やがて死すべきものの
 今、命あるは有り難し

      釈尊『法句経』
広い海に穴のあいた流木が一本浮かんでいる。目の見えない亀が、百年に一度浮き上がってくる。その木の穴に亀が顔を出すことは本当に難しい。人として生まれるのはそれと同じくらい難しいこと。

ともにいきる

 僕は悲しみを
 抱きしめようと決めた
 ひとつになって
 ずっといっしょに
 共に生きる
 ひとつになって
 君と生きる 
 共に生きる (長渕剛)


阿弥陀さまのお心は慈悲とよばれます。大悲とも言われます。なぜ悲しむ心なのでしょう。私の悲しみを共に悲しみ、共に苦しむ心だからです。阿弥陀さまはこの私の苦しみや悲しみを、まさに抱きしめて一緒に悲しまんとされます。それが慈悲なのです。

仏に育てられ

人として生まれてもオオカミに育てられたらオオカミになる。それは心にそんな心を持ってるからだ。私たちは人に育てられ人となった。仏教は仏になる教え。仏になるには仏に育てられるしかない。

 人に育てられ
    人になり
 仏に育てられ
  はじめて
     仏となる


人間が選んだ宗教ではない

世界のあらゆる宗教の中で
人間が選んだ宗教でないのは
親鸞聖人が受け取られ
       生きられた
浄土真宗しかありません
         カルロス


煩悩を抱え、縁次第で何をするかわからない人間の選びは確かなものではない。念仏は阿弥陀さまの本願に選ばれたものである。阿弥陀さまが選んでくださった確かなお念仏、その教えが浄土真宗だ。

愚者 賢者


 愚者にして
 愚なりと知らば
    賢者なり
 愚者にして
 賢者と思うものこそ
    愚者なり
      『法句経』
自分の愚かさを知った人は賢者であるとお釈迦さまは言われた。法然上人は「愚者になりて往生す」といわれ、親鸞聖人は愚禿と名乗られた。愚者と気付くとき阿弥陀さまに出遇える気がする。

宮商和して自然なり


  宮商
    和して
      自然なり
        
     『浄土和讃』


 東洋では宮、商、角、徴、羽、の五音階。宮はド、商はレに相当する。それぞれは素晴らしい音だが宮と商は不協和音。しかし、お浄土ではこの不協和音でさえも素晴らしいハーモニーとなって響く。

幸せを感じるこころ

日本はどうして不幸な人が多いのだろう?と問われた。幸せとは何か。プラス条件をたくさん集めるのが幸せだろうか。それは行き詰まる。大事なのは幸せと感じるこころだ。そんなこころが育っていないせいだろう。

  しあわせは
  いつも
  自分の
  こころが
  きめる


なんでもない

  なんでもない
  なんでもない
  なんでもない
  なんでもないことが
  こんなにうれしい
      (鈴木章子)


なんでもないあたりまえのこと。じつはこれが一番うれしいこと、尊いこと、有り難いことなのではないでしょうか。なんでもないことの尊さに気付いたとき、人は変われるような気がする。

他人を痛む



 自己がわからない人は
 他人を責める
 自己がわかった人は
 他人を痛む
       (安田理深)
 自分の本当の姿、弱さや、愚かさに気付いた人は、自己の正しさの不確かさも知らされる。そこに他人への思いやり、温もりの眼差しが生まれる。同じ凡夫としての痛みの共感がある。

見えないところのあり方


  ほんものと
  にせものは
  見えないところの
  あり方で決まる
      (東井義雄)


金箔か、純金か、見た目ではわからない。建築物は基礎や骨組み、大木は根の張り具合が大事。見栄えや飾り物で判断しがちだが、見えないところが大切。人は何が大切なのだろう。

そのまんま


  そのまんま
  照らし出されて
  咲きほこり
     (柴田隆幸)
花は色も形も様々である。大きさ香りをとってもみな違う。どんな花も陽の光に照らされて、そのまんま輝いて咲き誇っている。私のように卑屈になることも傲慢になることもない。


我が身の悪きことは


 人のわろきことは
 よくよくみゆるなり。
 わが身のわろきことは
 おぼえざるものなり。
       蓮如上人


他人の悪いところはよく見える。でも自分の悪いところは見ようとしない。自分の本当の姿を見るのは難しい。外からの視点、仏さまからの視点があることを知らされた時、本当の自分が見えてくる。

名を呼ぶ




 もっとも優しい言葉は 
 その人の 
 名を呼ぶことである
人はいろんな言葉を使います。人を呼ぶとき、どんな言葉を使いますか。「オイ!」「ねえ」「お前」「あなた」‥…。相手を認め、相手の名を知ってはじめて名で呼ぶことができます。

己を悲しむ


  静かに
  己れを悲しむ
    こころより 
  真実の力は生る
      武内了温


煩悩具足の凡夫、悪人、心は蛇蝎…阿弥陀さまの光に照らされて気づかれた聖人の姿である。それはすべて深い悲しみのことばである。しかしその本物の悲しみから真実の力が生み出されるのだ。

どうしてだろう

人気の歌「トイレの神様」の一節。少し大人になり、自分を育ててくれた大好きなおばあちゃんとぶつかる。知識、自我、善…。身につけたものが原因で、悲しいかな人を傷つけ、大事なものを失う。

 どうしてだろう 
 人は人を傷つけ
 大切なものをなくしてく
      (植村花菜)


いのちをねうちのあるものに


 生きている
   ということを

  ねうちのあるものに
       しなければ


私が今「生きている」ということ、それはどういうことでしょう。その意味が本当にわかった時、そのねうちが本当にわかった時、このいのちがねうちのあるものになるのでしょう。

真実に出会い



  真実に出会い
  不実を自覚する
  真実にふれなければ
  迷いの我が身に
  気づかない
迷いの中にいるとき迷いには気づかない。正しいと思っている時はなおさらである。真実に照らされてはじめて迷いの自分に気づいてゆく。そんな私を放ってはおかぬと阿弥陀さまは照らしてくださる。

道に迷った時は


  道に迷った時は
  たちどまって
  道を知っている人に
  尋ねるのが一番
        鈴木章子


道に迷うとは、行き先を見失い、現在地も見失うこと。迷いのままの自分では、抜け出ることはできない。まず立ち止まること。そして道を尋ねることが大事。誰に尋ねるかこれがもっと大事。

悲 心

悪を造り続けながらそれに気づかぬ私。縁に触れればどんなこともしてしまう私。阿弥陀さまは煩悩だらけで罪深いこの私をご覧になり深く悲しんでおられます。悲しみの心は私に向けられています。

   悲心は
   悪人に
   焦点を結ぶ
   
        梯 實圓


涙をながすこと


 目の
 本質的な役割は
 見ることではなく
 涙を流すことだ
   (ジャック・デリダ)


目の役割は?見ることです。忘れられがちですが、涙を流すことも目の大事な役割です。悲しいとき、嬉しいとき、つらいとき...。心が大きく揺さぶられ、心のありったけが涙となってあふれます。

念仏の口



 念仏の口が

  愚痴いうていた

      住宅顕信
お念仏の出るこの口が、愚痴をこぼしているとは、という句です。我が口をお念仏の口とおっしゃるのです。口をついて出る念仏を通して、常に如来大悲のあたたかさにであってゆかれました。

縁次第で

 
 人間は
 縁次第で
 何をするか分からない
 悲しい存在


人は様々な縁に出会う。縁によって穏やかに過ごすことも出来れば、歓喜の心に湧くこともある。しかし、縁によっては怒りがわき、怨みの炎を燃やすこともある。傷つき傷つけられ涙することもある。

雨の日には

   雨が降っても
   天に向かって
   ブツブツ言うな
   雨の日には
   雨の日の
   生き方がある
人生にも雨の日があります。嵐の日もあるでしょう。晴れの日と同じ生き方はできませんが、違ったあり方の中で違う味わいをもって過ごすことはできます。雨に日には雨の日にしかできないことを。


ケンカしたくないのに


 ケンカなんて
 したくないのに
 どうして
 ぼくは
 ケンカするんだろう


ケンカしたいっていう人はあまりない。でもケンカ。自分の思いどおりにならない時、腹が立つ。煩悩の身は、縁に触れれば怒りの心がおこる。「さるべき業縁のもよほさばいかなるふるまいもすべし」

仏に生まれるいのち


  死ぬる身を
   今生きている
     のではない
  仏に生まれる
   “いのち”を
     今生きている
       藤原千鶴子
26歳で末期癌と告げられ、今生の生涯を終えられた藤原千鶴子さん。家族に「仏に生まれる今日を生きているのだから」と今日ただいまのいのちを、仏になるいのちとして生きてゆかれました。

正しさが人を傷つける


  自分こそ正しい
  そのこころが
  他人を
  傷つける


「俺こそ正しい、私こそ間違っていない。」そんな主張や思いが時に人を傷つける。善意にはブレーキがきかない。正しさも振りかざせば武器になる。本当に自分は正しいのかと問い続けたい。

病気が治らない時の工夫

医学の進歩によって多くの病気が治るようになった。けれども死の克服はできない。人として生まれたからには必ず死に至る。病気が治らない時の工夫、死をどう解決するか、それが宗教に関わる。

  病気を治す
  工夫も大切であるが
  病気の治らない時の
  工夫も大切である
        武内洞達


人として


  人として
  生まれ
  出ずるは
  不思議なり
    
      柴田隆幸


自分が人間であることは当たり前のことではない。人間に生まれることは不思議なこと、とてつもないことと気づいた時、そこに、人間に生まれたことの意味、いのちの意味を考える縁が生まれる。

一切が私への説法



 私を取り囲む一切が
 久遠の過去から
 今におよぶすべてが
 私への説法である
     医師 駒沢 勝
人生にはいろいろなことがおこる。いいことだけではない。悲しみも苦しみも。そして老いも病いも。それはみな私への説法ではないか。それを通して気づくことがたくさんある。 

よき出会いを


 そのときの出逢いが
 人生を根底から
 変えることがある
 よき出逢いを
     相田みつを

ナナホシテントウ
ナナホシテントウ

 人は生きる過程において様々な人に出会う。いい人とも嫌な人とも出会う。それらの人を通してどんなことを教えられ伝えられるかによって人生が変わる。出会いによって人生が決まる。

死もまた我ら


 生のみが我等にあらず
 
 死もまた我等なり
   
        清沢満之
 死を遠ざけ、忌避する現代。しかし、生のみを見るのはいのちの半分しか見えていない。釈尊の求道は、老いや病いや死は苦しみであるという真理を見つめるところから出発した。

キュウリグサ
キュウリグサ

いだかれて


  いだかれて
  ありとも知らず
  おろかにも
  われ反抗す
  大いなるみ手に
       九条武子


私たちはどんなときも決して捨てない仏さまのみ手の中にいだかれています。しかしその仏さまのおはたらきに気づかず、いやそうであると知りながら愚痴をこぼし、怒りの炎を燃やすこの私です。

健康は二番




   健康は二番

   ご法義一番
「健康が一番ですね」とよく言われる。でも健康でなくなるときが必ずやってくる。そのとき健康一番では何をたよりに生きたらいいか。お釈迦さまは法燈明、法=教えをよりどころにといわれた。

自分を見るときは

 自分のことは
 自分では見えんもんや

 自分を見るときゃ
 如来さんの眼を
 いただかんと見えんもんや


都合のいいように自分を見てしまう私。自分はかわいいとしか見えない私。煩悩を持った私の眼で、私を見通すことは難しい。仏さまの眼から観たら、どのように見えるのだろうと考えることが大事だ。

神仏を拝んでいますか


  本当に
  神仏を
  拝んでいますか
  欲望を
  拝んでいませんか
あなたはどんな仏さま、神さまを拝みましたか。神仏に手を合わせたのではなく、自分の欲望を拝んだのではありませんか。あなたが手を合わせた神仏さまははどんなお方でしたか。

      → 阿弥陀さまって
   → 阿弥陀さまって

仏に願われて


  人に育てられ
     人になり

  仏に願われて
     仏になる

フユイチゴ  
フユイチゴ  

人に育てられ、はじめて人の心を持った人間に育つ。仏の願いに気づき、仏の願いのはたらきによってはじめて私は仏になる。どんな人と出会い、どんな縁にめぐまれるか。お寺は仏に会うところ。

うそつくのは



 おれたちの仲間は
 うそはつかねえ
 うそつくのは
 人間だけだ
    (カッパのクウ)
映画「河童のクウと夏休み」を見た。純真な心を持つ河童。しかし人間は、自分をまもるため、欲を満たすため、よく見られたいために嘘をつく。お釈迦さまは「嘘をつくなかれ(不妄語戒)」と。

拝めるような人に

   願  文
 にちにちに出会う
 なんでもない
 あたりまえの人を
 ひそかに
 拝めるような
 私になりたい
       榎本栄一


そばを食べたら、そば屋さんや農家の方、電気を使ったら発電所の人......。ネットを通してあなたと。私の日々の生活はいろんな人とつながっている。知らない人なんていない。つながりを感じて生きていきたい。

見方を変えるだけで


  見方を変えるだけで
  終わりではなくて
  スタートになる
   (アンジェラ・アキ)
花は散って終わりではない。花の終わりは結実のはじまり、新しいいのちのはじまりである。今ここが私のスタート。病気、悩み、絶望、別れ…、私の人生を見つめる新しいスタートかもしれない。

オオマツヨイグサ
オオマツヨイグサ

唯聴弥陀本願海

  如来所以興出世 唯説弥陀本願海
如来さまがこの世に出られたのは、ただ阿弥陀さまの本願のお心を説かれるためでした。
 ならば
  衆生所以興出世 唯聴弥陀本願海
私が世に生まれたのは、ただ阿弥陀さまの本願を聴くためと受けとらせていただきます。

ハ ス
ハ ス

私たちがこの世に生まれたのは、ただ阿弥陀仏のご本願の教えを聴くためだ、この一事がはっきりしていないとだめだぞ。(菅瀬芳英)

金色に輝くいのち


  いつ
  いかなる時でも
  あなたのいのちは
  金色に
  輝いている!

タマムシ
タマムシ

阿弥陀さまの願いに「どんないのちも金色に輝かせたい」という願いがあります。病気の人も、悩める人も、仕事のない人も、どんな人も輝かないいのちはないのです。いのちそのもので尊いのです。

ひとときを咲く

 見ずや君
  あすは散りなん
      花だにも
  力のかぎり
    ひとときを咲く
      (九条武子)
明日があろうとなかろうと、花は力のかぎり今のひとときを咲いています。山の頂きにも、麓にもどんなところにも花は咲いています。ひとの評価なんか気にしないで、自分のできる範囲で自分の花を。


仏にまもられるとは

 まもるといふは、
 異学・異見のともがらにやぶられず、
 別解・別行のものにさへられず、
 天魔波旬にをかされず、
 悪鬼・悪神なやますことなしとなり。
      (親鸞聖人『一念多念証文』)

朝露光るイネ
朝露光るイネ

「まもる」というのは災難に遭わないとか、危険が回避されたり、病気が治り、いのち伸びることではない。私の都合をいうのでもない。

仏 事


 亡き人を偲ぶだけでは
 仏事とは言えない
 亡き人への慕情を通して
 自己のあり方を見直すとき
 愛縁が転じて仏縁となる
         渡邊悌爾

スイレン
スイレン

法事や葬儀は仏事である。仏法を聞き、仏法に照らして我が身を見つめた時、初めて仏事となる。「あなたの生き方を見つめてみなさい」と亡き方がしつらえてくださった仏縁なのです。

一日でできる


一人がすると
一ヶ月かかることを
30人でやれば一日で終わる
人類が何千年かけても
まだできないこと
みんなでやれば
一日で終わるかもしれない
 そう平和なんて
 一日あればできるはず。
「世の中安穏なれ」宗祖750回大遠忌のテーマである。みんなでやれば平和も難しいことではないだろう。つながりあえたら一日でできる。

視点を変える


 視点が変われば

 世界は変わる

   (森達也)

キキョウ
キキョウ

どこからものを見るかによって、見え方は変わる。自分中心の視点だけではものの全体を見たことにならない。私たちは仏さまの視点をいただく。煩悩を離れた視点から見えてくるものがある。

浄土に生まれるいのち


 未来を失うと
 今の意味も失う
 浄土に生まれる
 いのちと定まる時
 生きる意味がわかる
もし私のいのちが死で終わりなら、未来はありません。しかし南無阿弥陀仏をいただくとき、私のいのちは浄土に生まれるいのちとさせていただきます。阿弥陀さまのお手伝いをさせていただくのです。


仏さまもさびしい


 私がさびしいときに
 お母さんはやさしいの
 私がさびしいときに
 仏さまはさびしいの
       金子みすゞ

キジバト
キジバト

みすゞは土徳ある仙崎で真宗門徒の家に育った。阿弥陀さまの慈悲心は、私の悲しみを同じように悲しむ同悲のこころ。さびしい時、仏さまもさびしい。如来大悲の心を見事にうたった。

無駄なことなし

オキナグサの綿毛
オキナグサの綿毛


  人生には
  無駄なことは
  何一つありません
     
      平野恵子
人生は思いどおりにいかない。「お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。」41歳で亡くなられた平野恵子さんが子どもたちに遺された言葉。

仏法を学ぶ


  鏡を見るとは
  自分の姿を見ること
  仏法を学ぶとは
  自己を学ぶこと

ボタン
ボタン

 鏡を見るとは、鏡に映った自分の姿を見ることです。あの鏡は丸くてきれいだったでは、本当に鏡を見たことになりません。仏法を学ぶというのも同じです。仏法に照らして自分を見つめることです。

頑張れんときは


  頑張れるときは
  頑張ったらええ
  頑張れんときは
  頑張らんでもええ
 人生には頑張れんときもある。重い病で入院しているとき、つらいとき....。そんな時、「頑張れ!、頑張れ!」はつらい。頑張れるときは頑張ろう。でも頑張れんかったら、そのまんまで。


登る道は一つ


 どれほど道があろうと
 自分が登るとなると
 一つです
     (平野 修)
  
 


「行き着くところは一緒でしょ。」たしかに仏教の目指すところはさとり一つだが、登り方を間違えれば、頂上に至らないことも、遭難することだってある。登る道は私にとっては一つです。

新しいいのち



  「無常」とは
  一瞬一瞬に変わること
  変化し続けている私
  常に新しいいのちを
  生きているのだ
諸行無常とは、あらゆるものは絶え間なく移り変わること。平家物語のイメージもあって滅びゆくことが強調されやすいが、進化、成長することも含まれる。「毎日、新しいいのちを生きている」これも無常の理から言える。

学ぶことは


 学ぶことは
 
 変わることである 
     
    (林 竹二)
「学仏大悲心」
私たちは仏の心を学ぶ。大慈悲の中に生かされていると知った時、私の生き方が変わる。自分の至らなさに気づき、阿弥陀さまの願いに応える人生へと変わる。

オオイヌノフグリ
オオイヌノフグリ

鬼はどこに

  うちの家にゃ
  鬼が二匹おる
  男鬼に女鬼
  あさましや
  あさましや  
      (浅原才市)

角を描き足たさせた浅原才市
角を描き足たさせた浅原才市

鬼は外、福は内? 自分だけ幸せであればいい? 災難は外からやってくる? 鬼は私の心の中に棲んでいます。蛇、サソリのような煩悩だらけの私。人を傷つけ、我が身をも傷つけている私です。

聞こえますか?

→聞こえますか? つぶやきへ
→聞こえますか? つぶやきへ

聞こえますか?
叫ばれる痛みの声
苦しみ悲しみの呻き

聞く心がなければ
なかなか聞こえない
戦火の絶えない地球。人々は痛みを訴えています。大きな音に遮られて聞き取れない悲しみや苦しみの声があります。私たちはその声を聞いてきたでしょうか。痛みを聞くことが平和への第一歩です。

浄土に生まれる身


  浄土に生まれると
  確信できた時
  その人はそこで
  生まれ直すのです
    
        五木寛之
 あてのない船旅は漂流である。お浄土と人生の行き先が定まった時、今のいのちが輝いてくるのです。希望を持って生きる道が開かれるのです。今の生き方を問うのが仏教です。


仏は私を忘れない


  私は
  仏を忘れるが

  仏は
  私を忘れない


 私が仏さまを思う時間は、一日どれくらい? 昨年一年間ではどれくらいのだったでしょうか。ほんのわずかです。私が仏を忘れていても、阿弥陀さまはずーっと、私のことを案じてくださっています。だから安心ですね。

染香人

ロウバイ
ロウバイ


  染香人の
   その身には
  香気あるが
   ごとくなり
    (浄土和讃)
 念仏の行者は、染香人(ぜんこうにん)と讃えられる。仏の智慧の香に染まった人ということである。阿弥陀さまは煩悩の私を放ってはおけぬと、お念仏を届け、仏の香りに染めてくださるのです。

人生の目的


 何のために生まれて
 何をして生きるのか
 答えられないなんて
 そんなのはイヤだ
 (アンパンマンのマーチ)
 気づけば、生まれていた。生まれようと思って生まれたものなどいない。大海原に放り出されたようなもの。しかし人生の目的が定まった時、人生に意味が生まれる。あなたの人生の目的は何ですか。

ミノムシ  →いのち見つけた
ミノムシ  →いのち見つけた

願いの中の私


  たくさんの
  願いの中に
  生きている私。
 親の願い、子の願い、阿弥陀さまの願い。たくさんの願いに生かされている私。なのに自分の願い事ばかり。
 自分の願いで頭がいっぱいの時は、ほかの願いが聞こえません。願いに気付く日々を過ごしたい。

エノキタケ
エノキタケ

問いを持つ



 問いを
  持たない
   人生ほど
 空しい
    ものはない
楽しければいい? 儲かればいい? そんな人生でいいのでしょうか。生まれ難き人としていのちめぐまれ、とてつもなく不思議ないのちを生きている。人生に対する問い持つのは人間の境涯だけです。

人と比べての幸せは本物?


「あの人よりはマシ」と
 比べる生き方は
 自分より不幸な人
 気の毒な人を見つけて
 満足する人生になる
これくらいでよかった。もっと重篤の人もいるのに....。他の人と比べて一喜一憂するところには本当の安心はありません。他の人と比べてのよろこびは本物ではありません。本当のよろこびとは何か、考えてみましょう。

ト チ
ト チ

身近な人のこころ


 すぐそばの茂みに
 こんなきれいな実が
 輝いていたなんて
 人に教えられるまで
 気づかなかった

ノブドウ
ノブドウ

 インターネットは便利である。世界中の情報が瞬時に分かる。地球の裏側で起こったことまで。 でもすぐそばにいる人の気持ちはインターネットではわからない。身近かな人の美しい心に出会い、安らぎを感じた。

お念仏に支えられ

   彼岸花

 凛と立つ
 茎に支えられ
 紅の煩悩のまま
 曼珠沙華
 咲け
   
    能芝 隆

ヒガンバナ
ヒガンバナ

 真っ赤な花はまるで煩悩が燃えさかるかのようです。しかし、しっかりした茎に支えられれば、見る人に彼岸=お浄土を思わせます。
 私の心は煩悩でいっぱいです。毒ある言葉、行いが人を傷つけ、自らをも苦しめています。しかしそんな煩悩の身であっても、阿弥陀さまに信心をめぐまれ、お念仏に支えられれば、周囲の人にお浄土を思わせる生き方になります。

如来の眼の中に


  人の目の中
     ではなく

  如来の
    眼の中で
       生きる
服を買うときも、車を買うときも、外に出かけるときも人の目を気にしている私。体裁を気にし、いかに人に認められるかを考えてばかりいる私。人の目にがんじがらめになる私に、いのちそのもので尊いのだと如来さまは常に照らしてくだいます。

ク  ズ
ク  ズ

青色青光

 池の中の蓮華は
 大きさ車輪のごとし
 青色には青光
 黄色には黄光
 赤色には赤光
 白色には白光ありて
 微妙香潔なり
      『阿弥陀経』
お浄土の池には車輪のように大きな蓮の花が咲いている。青、黄、赤、白。それぞれが独自の色に輝いている。他の色と比べて卑屈になったり、傲慢になったりしない。いろんな色がそれぞれに輝くから美しいのである。それがお浄土の世界。

キカラスウリの花
キカラスウリの花

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