蓮  光  寺

  ともに いのち かがやく 世界へ      浄 土 真 宗 本 願 寺 派    

     いのち見つめるお寺       見つめよういのち、見つめよう人生。教えに遇い、仏さまに遇い、自分に遇う。

親鸞聖人のご生涯

  誕    生

 親鸞聖人は承安3(1173)年4月1日、京都の東南、日野の里にお生まれになりました。聖人の幼名は松若丸であったと伝えられます。
 父は皇太后宮大進という役職にあった下級貴族の日野有範でした。
 日野の地には法界寺があります。阿弥陀堂には金色に輝く定朝作の阿弥陀さまが座しておられます。幼い聖人は折に触れ、この阿弥陀さまを拝まれたことでしょう。阿弥陀さまの眼差しの中に幼少期を過ごされました。
 後にこの法界寺の隣に聖人の誕生を記念して日野誕生院が建てられました。
 5月21日(4月1日を太陽暦に直し)には、親鸞聖人のお誕生を祝う宗祖降誕会の行事が各地で勤められます。

  幼 少 期

親鸞聖人がお生まれになったのは平安時代末期。武力抗争、天災、飢饉の相次いだ時代です。
 聖人5歳の年、鹿ヶ谷での平家打倒の密談が発覚、俊寛らが鬼界が島に流罪となります。
 治承4(1180)年、聖人8歳の年には以仁王の令旨を奉じて源頼政が挙兵、宇治平等院で平氏に敗れました。幼い聖人のおられた日野と宇治は目と鼻の先、戦の叫びや悲惨な呻きを耳にされたのかも知れません。この年、源頼朝、義仲も挙兵します。
 翌、養和元(1181)年、日本史上まれにみる飢饉となりました。京都の市中だけで42,300もの餓死者の遺体が放置されていたと『方丈記』に記されます。人々は苦難の中に生きていたのです。
 この年、聖人は叔父日野範綱につれられ青蓮院にて得度されました。9歳の春のことです。この同じ年、平清盛が没します。

 出家得度

    明日ありと思う心のあだ桜
           夜半に嵐の吹かぬものかは

 9歳の松若丸が詠んだ歌と伝承されます。叔父、日野範綱につれられ、東山粟田口の白川坊(現在の青蓮院あたり)に着いたのは日も暮れた頃でした。得度受戒を希望する旨を戒師となる慈円僧正に申し出たところ、「もう日も暮れたから明日にしては」との答えでした。そこで詠まれたのがこの歌です。
「夜中に嵐が吹けば桜も散ってしまう。私のいのちも明日の保証はない、今日のうちにお得度を。」との願いを詠んだのです。
 相次ぐ戦乱、まれにみる飢饉のこの年、9歳の幼い松若丸にもいのち無常のことわりは痛いほど感ぜられたのでしょう。
 明日があるからと、何事も先延ばしにしてしまう私。様々な理由をつけて、今すべきことをしない私。本当に今日のいのちを大事にしているか。
 自らの生き方を見つめ直すことが仏教の出発点です。

 比叡山へ

 松若丸は範宴という名をいただいて比叡山にのぼってゆかれました。
 比叡山延暦寺は伝教大師最澄によって開かれた、天台宗の根本道場です。奈良時代の仏教がともすれば政治と結びつき、一人ひとりのさとりに目を向けず、国の安泰のみを祈る鎮護国家仏教であったことを批判し、この奈良仏教から決別して、最澄は延暦寺を建立しました。真の仏教者「一隅を照らす」人材を養成しようとする道場としたのです。すべての人のさとりを目指す大乗仏教の確立をめざし、「大乗戒壇」設置に取り組みました。
 以後、比叡山には多くの学僧が仏法を学び、多くの高僧、人材を輩出したのです。
 良源、源信、良忍、栄西、法然、道元、日蓮いずれも比叡山で学んでいます。

求道の悩み

「殿の比叡の山に堂僧をつとめておはしましける」と恵信尼さまは手紙に書いておられ、覚如上人は「楞厳横川の余流をたたえて」とありますから、範宴は源信和尚の流れを汲むお念仏の行、常行三昧堂の堂僧をつとめておられたことが知られます。
 しかし この自力の修行ではいっこうに清浄な心を得ることも、さとりに近づくことも出来ず、大きな行き詰まりを感じられたのです。
 そこで29歳の時、聖徳太子ゆかりの六角堂に100日の参籠を決心され、自らの進む道を問いたずねられました。95日目の明け方に救世観音の夢告(示現)を得られました。その文は弟子真仏の「親鸞夢記」によれば
  「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
 であったと伝えられます。在家仏教を示すものであり、これによって範宴は比叡山を下りる決心をされます。その導きによって吉水の法然上人のところへおもむかれたのです。

吉水入室

 東山吉水の法然聖人の草庵には老若男女、道俗貴賤の別なく、たくさんの人々が訪れ、専修念仏の教えに耳を傾けていた。どのような仕事を抱えていても、どのような立場の人であっても、ただ専ら念仏を修めるよう勧められていました。
 『選択本願念仏集』の中で法然聖人は、お念仏はすべての人が往生し仏になるために、阿弥陀さまが選んでくださった行であることを明らかにされました。
 念仏は阿弥陀仏のすべての徳がおさまった最も勝れた行であり、誰にでも易しく実践できる究極の易行であると示され、この勝易の二つの徳があるから、どんな人も往生し仏になることができるとされました。
 親鸞聖人は、また百日、迷いの道から出る道を聞き続けられました。善人も悪人も別なく阿弥陀さまの救い光の中に生かされてある事を実感し、お念仏の道に生きて行くことを決心されたのです。
 時に二十九歳、「雑行を棄てて本願に帰す。」(多くの他の行をやめ、ただ本願の念仏の道に帰依し生きて行く)と述懐されています。

法然門下の親鸞聖人

法然門下における二つのエピソード
 信行両座・・・あるとき、親鸞聖人は法然聖人の許しをえて、門下の弟子たちに対し、信不退(信心によって往生が定まる)と行不退(念仏の行を励んで往生しようとする)の二座に分け、いずれに賛同するかを求められました。まず聖覚、信空が信不退の座に着かれ、遅参した法力(熊谷直実)もこの座に着かれた、そして善信(親鸞聖人)が信不退の座に着かれたあと、最後に法然が着座されました。

 信心諍論・・・善信房(親鸞聖人)の信心と、法然聖人の信心は同じであるという意見に論争が起こった。法然聖人は、善信の信心も、法然の信心も如来より給わった他力信心であるから同じであると門弟に聞かせた。

承元の法難

 法然聖人の吉水教団の盛況は、延暦寺や興福寺をはじめとする旧仏教教団からの批判を受けます。比叡山からの抗議に対して、法然聖人は『七箇条制誡』をもって誡められました。この中に親鸞聖人は綽空の名を署名しておられます。
 さらに元久2(1205)年、興福寺は念仏禁止を求めて『興福寺奏状』を朝廷に提出しました。建永2(1207)年<承元元年>念仏停止の院宣が下され、法然聖人をはじめ主な弟子方が処罰をうけました。これが承元の法難です。
 死罪4名 西意善綽房<摂津にて>  性願房<近江にて>  
      住蓮房<近江にて>  遵西安楽房<六条河原にて>   
 流罪8名 法然聖人(土佐→讃岐)
     親鸞聖人(越後)
      浄聞房(備後)  澄西禅光房(伯耆)  好覚房(伊豆)
     行空法本房(佐渡)  幸西成覚房・善恵房(遠流→無動寺慈円預)
 この無道な弾圧に対して、親鸞聖人は「主上臣下、法に背き義に違し、怒りを成し怨みを結ぶ。(天皇とその家臣が、仏法に背いて正義を違え、怒りの心を起こし怨みを起こして)」この弾圧を行った、と厳しい言葉で批判をしています。
 親鸞聖人は僧籍を剥奪され、藤井善信の名で越後に流罪となりました。以後、聖人は「しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもって姓とす。」と、非僧非俗の生き方をされます。これは、国の認める僧ではなく、かといって世俗にまみれる生き方ではない、真に仏法に生きる名乗りです。

親鸞聖人の結婚

 親鸞聖人は恵信尼さまと結婚されました。恵信尼さまは越後介、三善為教の娘といわれています。京都で知り合われたかどうかは定かではありませんが、その縁によって越後に流罪になったのかもしれません。
 聖人が仏教の伝統を超えて妻帯されたのは次の二つのことも背景にあります。聖人は比叡山を下りるかどうかで悩んでおられた時、六角堂に百日の参籠をされました。その時の夢告が「仏道を修行する者が、何かの縁によって、女性と結ばれることがあるならば、わたくし(救世観音)がその女性になりかわり、一生の間、よくその人生をかざり、臨終には極楽浄土へ導きましょう」というものであったということ。もう一つは、吉水に入って「聖であって念仏ができないならば、妻帯して念仏せよ。妻帯したために念仏ができないならば、聖になって申せ」というのが法然上人の教えであったからです。
 親鸞聖人には7人の子どもさんがいました。範意、小黒女房・慈信房善鸞・信蓮房明信・益方大夫人道有房(道性)・高野禅尼・ 覚信尼です。すべてが恵信尼さまのお子さんであるかどうかははっきりしません。

越後そして関東へ

越後の聖人
 親鸞聖人は越後国府(現在の上越市)に流罪になりました。はじめの年、一日にわずかの米と塩が与えられ、翌年の春には種が支給されます。秋からは全く自給自足の生活をしなければなりませんでした。越後の人々と生活をともにされたのでしょう。
流罪赦免
 流罪になって5年後、1211年11月に流罪が赦免されました。しかし、聖人の子(信蓮坊)が3月に生まれたばかりでした。二ヶ月後、年が明けると師、法然聖人が亡くなれたという知らせも届きましたので、しばらく越後にとどまられました。
関東へ
 聖人が42歳の1214年ごろ、親鸞聖人は妻子を伴って関東へ移られました。途中、信濃の善光寺を経て、関東に赴かれました。一説には善光寺聖であった性信の縁によるものだともいわれます。

関東でのご教化

 親鸞聖人は常陸の国に移られ、稲田(茨城県笠間市)の草庵や小島(茨城県下妻市)の草庵などを中心に二十年にわたってご教化をされました。北関東、南関東さらには奥州にまでお念仏のみ教えがひろまりました。多くのお念仏よろこぶ人がふえました。
 親鸞聖人は「弟子一人も持た

ず候ふ」と言われたように、人々に対して師匠と弟子という態度ではなく、「御同朋・御同行」のこころで接しておられます。共にお念仏の教えに生きる朋であり、同じ念仏の行者であるということです。
 各地に門徒の集まりが出来ました。指導者を中心にした集まりではなく、お念仏の教えによって結ばれた集まりであったので、横曽根門徒、鹿島門徒など地名を冠して呼ばれました。

弁円済度

 親鸞聖人のご教化によって多くのお念仏よろこぶ人がふえました。しかし一方で旧来の宗教の中にはそれをこころよく思わないものもありました。
 山伏の弁円は、板敷山を往き来する聖人を待ち伏せ、いのちをねらいました。しかし出会うことが出来なかったので、ついに草庵に押しかけたのです。しかし、聖人は穏やかなお顔で接せられました。その尊顔に、弁円の殺意は消え失せ、後悔の涙まで流されたのです。弁円はその場で弓矢と刀をすて、お弟子になることを願い出られました。聖人は明法房という名を与えられ、お弟子にされました。 以後、明法房はお念仏の教えをよく聞かれ、さらに広められました。明法房がなくなられた時に聖人は京都から「お浄土に往生されたことは間違いなく、尊いことです」と関東の他の弟子に手紙を送っておられます。
 このエピソードが示すように親鸞聖人の関東でのご教化は大変なご苦労があったようです。ご自身を殺しにきたものにも、温顔で接せられ、教えをお説きになったのです。
.