その時々の思いをそのまま、すこし書き留めておこうと思いました。覚え書きです。
れんこうじ かふぇ寺´s しました。 4月18日〜20日 4月25日〜27日
新緑美しいお寺で
静かに自分自身を見つめて
ゆっくりしてみませんか
喫茶メニューを準備してお待ちしています
手を合わせて心穏やかな時間をお過ごしください
4月18日〜20日 25日〜27日
12時〜16時
〈飲み物〉
オリジナルティー
・青色青光
・黄色黄光
・赤色赤光
・白色白光
ほか
〈スイーツ〉
・シュークリーム
・イチゴティラミス
・抹茶ムース
ほか
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
親鸞聖人 「正像末和讃」
阿弥陀如来の大いなる慈悲の恩徳には、身を粉にしても、報いてまいります。教え導いてくださる釈尊や祖師方の恩徳にも、骨を砕くほどに深く感謝するようになります。
親鸞聖人の恩徳讃 「恩徳讃」は、親鸞聖人が八十五才頃作られた和讃の一首です。「身を粉にしても報ずべし」「ほねをくだきても謝すべし」この「べし」は、「しなければならない」という強制や命令ではなく、当然の意味もふくまれてきます。「信心を頂いた者は、報恩感謝する心が必ず起こるはずである」というものです。
仏教讃歌としての恩徳讃
法要などで音楽の節が付けられて演奏されます。大正七年(一九一八)に澤康雄氏によって作曲されました。その後、戦後昭和二十七年になってから清水脩氏が軽快で明るい曲調で作曲しました。現在、本願寺派では、清水によって作曲された新譜がよく歌われますが、かつては澤康雄が作曲したもの(旧譜)がよく歌われていました。
ハワイ生まれの仏教讃歌
仏教讃歌としての「恩徳讃」の誕生の地はハワイです。なぜハワイだったのでしょう。明治になると日本からハワイへの移民が行なわれました。第一回ハワイ 官約移民は一八八五(明治一八)年、九四四人が渡航しました。その中、山口県四二〇人、広島県二二二人、中でも周防大島からは約三〇〇人が参加しています。一八九四(明治二七)年で官約移民は最終となりますが、その間、約二万九千人が日本からハワイに渡りました。 ハワイがアメリカ合衆国に併合されると移民の形態も変わり、明治三十三年から「自由移民」さらに「呼び寄せ移民」が行なわれ大正十三年までに合わせて十四万人もの人がハワイに移民として渡ります。広島、山口、熊本、福岡など西日本の各県、特に真宗門徒の多いところから移民が多かったのです。 移住した真宗門徒は、ハワイでも礼拝の習慣を絶やしませんでした。一八九七年(明治三〇)本願寺から正式に開教使が派遣され、一八九九年(明治三二)にはハワイで最初の本堂が落成し、寺院としての活動が本格的に開始されました。その後ハワイ各地に寺院が築かれ、地域の日系真宗門徒の心の拠り所となりました。(現在ハワイには三十一の本願寺派寺院があります。) 欧米の教会、ハワイのキリスト教会には賛美歌など音楽も大事な伝道とされていました。当時の仏教界でも近代的な仏教音楽が求められていました。それに応じて、大正七年(一九一八)ハワイ開教二十年を記念して建て替えられたハワイ別院での法要にあわせて、ハワイ別院に赴任した澤康雄氏によって多くの仏教讃歌が作られました。その一つが この「恩徳讃」(旧譜)です。 ハワイ生まれの仏教讃歌「恩徳讃」が日本に伝わり、日本でも歌われるようになったのです。
1月2日、3日に行われた箱根駅伝で総合優勝を成し遂げた駒沢大学。その復路の大事な9区を走ったのが山野力くん。2位を維持して10区にタスキを渡した。区間6位の見事な走りでした。山野くんからタスキを受け取った最終10区で創価大学を抜いて一位でゴールしました。
山野くんは現在2年生。昨年の秩父宮杯全日本大学駅伝対校選手権大会でも第6区を走り優勝しています。来年の箱根駅伝も楽しみです。
蓮光寺門徒、東和苑の山野明さんのお孫さんです。
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箱根駅伝
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秩父宮杯全日本大学駅伝対校選手権大会
9区を力走する 山野 力くん
毛虫(チャドクガの幼虫)にやられた。お隣との境の斜面の草を刈り、竹や草を片付けていた。椿の木の下の草も……。なんかちくちくする。杉の枯れ枝か……。ふと椿の木を見上げるとひと枝に葉っぱがない……。もしや……葉の裏にチャドクガの幼虫の群れ、たくさん、たくさん。腕も背中も脇腹もかゆい。作業は切り上げ風呂場に駆け込む。ズボンにもつぶれた毛虫が……。毒毛が散ってはほかにも影響が出るので、着ていた作業用のくたびれた服はそのままゴミ袋へ。そして私はシャワー、すこし熱めにして流す。なんどもなんども。何とか落ち着いたので薬を塗って……。両腕の内側に赤いぶつぶつがすこし残った。
このたび、我が家の長女と次男は、2月27日、本願寺御影堂にて得度式を受け僧侶となりました。
3月18日、蓮光寺彼岸会の法要に会わせて二人の得度を阿弥陀さまに奉告申し上げる得度奉告法要を行いました。二人の三奉請、そして讃仏偈のお参りをしました。ご門徒に挨拶をしました。
次男が伊勢神宮弓道場で行われた東西対抗選抜試合に出場した。この秋の全国の学生弓道リーグ戦で各地区から上位に入った選手が東西10人ずつに別れて競う。西軍の一人として出場。よく頑張りました。西軍の準優勝。
うちの次男は大学で弓道をやっています。関西大学弓道部に所属、今季リーグを終え、個人、関西学生の十傑に入った。
関西学生弓道連盟HP
四位の成績。関西リーグで上位5位までに入ったので、11月18日に伊勢神宮で行われる行われる東西学生弓道選抜対抗試合に出場する。
全日本学生弓道連盟HP
大阪に行っていた息子が突然の帰省。ちょうど月曜日は空いていたので久しぶりに海へ。曇りの日だったのでいまいち色鮮やかでないが角島大橋をながめた。大浜海岸で泳いだ。角島は美しい海だ。
12月8日は成道会。今年は子どもの予定にあわせて1日遅れの9日に開催。食事は我が家恒例になったチーズフォンデュ。さとりは乳、酪、生蘇、熟蘇、醍醐と熟成された醍醐味にたとえられることから。もちろんケーキは恩徳讃をうたって…。プレゼントもあります。クリスマスの無い仏教徒の我が家では12月の大事な行事です。
山口県チーム
岩手国体弓道少年の部 遠的第7位入賞
近的第7位入賞
10月7日〜9日に岩手県奥州市で行われた岩手国体弓道競技で少年山口県チームは遠的(60m)の部で7位に入賞した。さらに近的(28m)でも7位に入賞した。山口新聞にもとりあげられた。よく頑張りました。賞状2枚をもらって帰ってきました。
うちの次男、は8月20〜21日、倉敷で行われた第71回国民体育大会中国ブロック大会弓道少年の部に出場した。中国5県から2県のみ岩手国体に出場する。山口県代表チームは3人立、遠的と近的で競われた。遠的は159点の一位。(次男は30点、32点合計62点の一位)近的は24射21中の一位。(次男は8射8中)山口県少年男子チームは総合1位で岩手国体への出場を決めた。岩手国体弓道競技は10月7日から9日に岩手県奥州市で行われる。
遠的
うちの次男は今、高校三年生。弓道をやっている。
6月18〜19日に米子で行われた中国大会では香川高校は団体8位の入賞。息子は個人第一位、優勝した。各県から12人づつ選抜された60人で争われ、8射8中の5名によって競射、4的中が2人となり、八寸的に小さくしてさらに競射、2本的中、優勝した。
7月17日に維新公園弓道場で行われた国体選考会。県内の高校から代表選手3人と補員1人を選ぶ。県内の14校から40人が競った。国体は遠的(60m)もある。遠的が16射中15、近的(28m)は16射13、合計28的中で総合一位タイ。山口県代表少年の部の選手に選ばれた。8月20〜21日に倉敷で行われる第71回国民体育大会中国ブロック大会に出場する。中国地方からは2チーム(県)のみ岩手で行われる本大会10月7日に出場できる。
中国大会優勝楯と賞状を抱えて 鳥取県立武道館にて
新発意、順真は得度習礼をおえて2月27日、本願寺御影堂にて得度式を受け僧侶となりました。3月8日、蓮光寺の阿弥陀さまに奉告申し上げ、ご門徒に披露する新発意得度奉告法要を行いました。門徒一同から贈られた五条袈裟をまとい、新発意の三奉請、讃仏偈の調声で160名を超えるご門徒の皆様とともにお勤めをしました。
6月5日西本願寺の御影堂で即如門主退任に際してのご消息が発布された。わたしもお参りした。縁あった者として感慨深いものでした。即如門主は昭和52年31歳で就任以来37年門主をつとめられた。「この37年間は勝如前門主の戦争を挟んだ激変の50年に比べればやや穏やかとも言える時代でしたが、国内では大小の天災、人災が相次ぎ、経済価値が優先された結果、心の問題も深刻化しました。世界では武力紛争、経済格差、気候変動、核物
質の拡散など深刻なあるいは人類の生存に関わる課題が露わになりました。その中で、心残りは、浄土真宗に生きる私たちが十分に力を発揮できたとは言えないことです。」との御教諭をいただきました。心残りは……と、ご門主様も念仏者の一人としてそうお感じになっておられるのでしょうが、私たちの力不足で多くの問題が解決できないままにあることで、ご門主さまにこう言わしめてしまいました。申し訳ないことです。
諸課題に対して見て見ぬふりをするのが念仏者ではありません。阿弥陀さまの願いに応える生き方、やがて浄土に生まれ仏となる身としての生き方をしてゆかねばなりません。
「信長殿を信じることだけは、どうしても出来ませぬ。荒木殿、あなたは信長殿を本当に信ずることができますか?」
NHK大河ドラマ軍師官兵衛(第十五回)の一場面、顕如上人のセリフです。荒木村重の和睦の申し出に対して答えたものです。ドラマではこの言葉がやがてくる村重の謀反の伏線にもなっています。信じることの難しさ、人間の当てにならぬ心をも問うている言葉です。
顕如上人は本願寺第十一代の門主です。本願寺は多くの門徒をもち経済的、社会的、政治的にも大名に匹敵するものとなっており、否応なく戦国の動乱に巻き込まれていきました。多くの門徒が石山本願寺に籠城し、元亀元年(一五七〇)〜天正八年(一五八〇)まで断続的に十一年間信長と戦いました。石山合戦と呼ばれています。
当時本願寺は大坂石山(いまの大阪城の地)にあって石山本願寺と呼ばれていました。もともと本願寺は東山大谷の地(青蓮院の南)ありました。第八代蓮如上人の時、比叡山衆徒の破却によって吉崎に移りました。やがて山科に本願寺を建立しました。蓮如上人は実如上人に門主を譲ると大坂石山に坊舎を建て、そこに隠居しました。第十代証如上人の時、山科本願寺は細川氏、六角氏と法華宗徒による焼き討ちで炎上、本願寺を石山へと移したのです。
顕如上人の時代、東海、北陸、近畿に多くの門徒がいました。当初は農民がほとんどでしたが、村ぐるみ門徒となった村では国人とよばれる地侍も門徒となり、地域の寺院と一体になって自治が行われていました。真宗寺院を中心に寺内町も出来、大名の支配のおよばない地域もありました。加賀一国は門徒代表と僧侶代表などの合議によって民主的な統治が100年間行われていました(門徒領国制)。しかし戦国大名から見れば支配に従わないものであり、武によって天下統一を目指した織田信長とは相容れないものでした。信長は長島、越前の門徒を一揆として殲滅、長島では降伏した門徒が船で門から出るときに一斉射撃、撫で切りにされ二万の門徒が亡くなりました。越前では七万の門徒が殺され、中にははりつけ、釜に入れられあぶられたとも記録されています。
本願寺のあった大坂石山は大阪湾に面し海上交通の要衝でした。西国の覇権を狙う信長にはどうしても押さえたいところでした。信長は多額の矢銭(軍資金)を要求、そして明け渡しを求めてきました。元亀元年、中之島に布陣していた三好氏に信長が攻撃をかけたことが発端となって信長と本願寺との間で戦争が始まりました。本願寺を支援する大名は、信長とも敵対した浅井氏、朝倉氏、三好氏、武田氏、毛利氏などで、毛利氏は村上水軍によって兵糧を運び、紀州の雑賀衆も鉄砲隊を率いて参戦しました。武田信玄の妻“三条の方”と顕如上人の妻“如春尼”はともに京の三条家から嫁したじつの姉妹でもありました。
摂津や播磨の大名(荒木村重、別所長治など)が一度は信長方につきながら謀反を起こしたのは、家臣の中にも、また領民の中にも多くの本願寺の門徒がいたことも一つの原因と言えるでしょう。
やがて浅井、朝倉氏も降伏、武田信玄も病死、荒木氏の有岡城、別所氏も降伏、村上水軍も信長の鉄甲船によって打ち破られ兵糧の補給がたたれると本願寺は孤立しました。天正八年(一五八〇)朝廷の斡旋によって講和し、顕如上人は紀州鷺森に移りました。
顕如上人の長男教如上人は和睦に反対そのまま石山に残りましたが、信長軍は次々と出城を攻略し戦争継続は困難となり教如上人もやがて退去しました。
北海道の浄土真宗
山口県には山口別院があるように、それぞれの地域には本願寺直属寺院があります。北海道には札幌別院、帯広別院、江差別院、小樽別院、函館別院となんと5つも別院があります。北海道には本願寺派のお寺が三四四ヶ寺あり、東北六県の一五一にくらべるといかに多いかがわかります。(ちなみに東本願寺のお寺も多く)それは北海道の開拓に深く関わっています。幕末、西本願寺は函館などの開墾を申し出ます。北陸などから門徒を移住させて開墾し水路を作るなどしています。明治になって全国から北海道の開拓に移民されますが、その多くが真宗地帯の北陸の方々です。北陸六県で40%にもなります。北陸から移住されたのご門徒の方々は、お念仏に支えられ、厳しい気候と困難な開墾にも耐え抜いてゆかれたのです。本願寺派の関係学校も3校、旭川龍谷高校、札幌龍谷高校、小樽双葉高校があります。
先日、熊本城に行った。久しぶり。西南戦争の熊本城攻略の直前、本丸の天守などの主な建物は焼失した。復興天守はコンクリートの階段なのでただの展望台。近年の本丸御殿の復元も見たが、やはり私は宇土櫓をということで暑い中見学した。櫓とはいえ内部は装飾などはないが実践的な石落としが多くつくられている。高い石垣も魅力だ。重要文化財に指定されている。
全日本仏教会は、2013年5月10日(金)、参議院議員会館において、「閣僚の靖国神社公式参拝に対する抗議」文書を、安倍晋三内閣総理大臣へ提出した。関﨑幸孝本会事務総長から世耕弘成内閣官房副長官へ手渡しました。
仏教は我欲を満たすためのものではない。仏教は煩悩を取り除いてさとりを目指すおしえです。浄土真宗は今生では難しいから、浄土に生まれて煩悩を断ってさとりを開く教えだ。だから私たちのお寺には○○祈願をしない。いや出来ない。仏とは願いを叶えてくれる存在ではないからだ。
ところがどうだろう、仏教と銘打ちながら商売繁盛や合格祈願、厄除けや占い、開運などさまざまな欲望祈願ばかりのお寺がある。またそんなお寺は人が列をなしてのにぎわい。どんな神仏が奉ってあろうと構わない、ただ自分の願いを拝んでいるのである。
「本当に神仏に手を合わせていますか、欲望を拝んでいるのではありませんか」
一番悲しんでおられるのはそんな仏さまではないかと思います。
宣言文 原子力発電によらない生き方を求めて
東京電力福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避難生活を強いられています。避難されている人々はやり場のない怒りと見通しのつかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。
広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。
日本は原子爆弾による世界で唯一の被爆国であります。多くの人々の「いのち」が奪われ、また、一命をとりとめられた人々は現在もなお放射線による被曝で苦しんでいます。同じ過ちを人類が再び繰り返さないために、私たち日本人はその悲惨さ、苦しみをとおして「いのち」の尊さを世界の人々に伝え続けています。
全日本仏教会は仏教精神にもとづき、一人ひとりの「いのち」が尊重される社会を築くため、世界平和の実現に取り組んでまいりました。その一方で私たちはもっと快適に、もっと便利にと欲望を拡大してきました。その利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による「いのち」の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。だからこそ、私たちはこのような原発事故による「いのち」と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。
私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません。
そして、私たちはこの問題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし、一人ひとりの「いのち」が守られる社会を築くことを宣言いたします。
2011(平成23)年12月1日 財団法人 全日本仏教会
西宇部校区の成人学級で講演した。70名の方々。お顔のわかるご門徒もおられる。お寺でのご法話にはよく出張するが、最近このような地区からの依頼もある。
テーマは「いのち見つけた」
身近にはいろんないのちが息づいている。生き方は千差万別。人間の目から見れば滑稽な生き方であったり、哀れであったりする。でも私から離れた視点からみると、違った世界が見えてくる。
私に安らぎを与えてくれるいのちがあります。生き方に共感し涙するいのちもあります。私に生きざまを教え導いてくれるいのちもあります。これらのいのちに触れ、心を澄ましてつぶやきを、叫びを聞くとき、人間の、私の小さな殻に閉じこもっていたことに気づかされます。
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ライチョウ
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オオイヌノフグリ
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エノキタケ
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コマクサ
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ナス
いのち見つけた ほんの小さな息づかい
精一杯生きる姿に 涙がこぼれた
とてもとてもうれしいことがあった時
心はずむ笑顔のボクに
「私もこんなに幸せ」と
鳥は一緒に唄ってくれた
つらく悲しい出来事から逃れるように
うつむき加減に歩いてるボクに
「私と一緒に泣こうね」と
花は静かにささやいてくれた
いつもどこかで優しく支えていてくれるから
いつだって自分なりにこうして前を向いてる
人に向かって自慢げにふるまいながら
少し天狗になっているボクに
「ほんとにそれでいいのか」と
大樹は優しく包んでくれた
自分がほんとに情けないとつぶやきながら
生きることに疲れてるボクに
「私もここに生きている」と
虫は輝きを教えてくれた
いつもどこかで必ず見つめていてくれるから
その想いに応えたくてこうして前を向いてる
その想いに応えたくてこうして前を向いてる
いのち見つけた ほんの小さな息づかい
精一杯生きる姿に 涙がこぼれた
6.11〜12日、一泊二日の日程で韓国に行った。ソウルの曹渓寺、奉恩寺、そして国立中央博物館を訪ねた。曹渓寺は韓国最大の仏教教団曹渓宗の本山。境内には色とりどりのたくさんの提灯が飾られていた。本堂では多くの信徒が僧りょとともに読経そして礼拝。仏さまは釈迦、薬師、阿弥陀の三尊。信徒の読経の間に身を置いて少しの間宗教的空間にひたった。ソウル郊外の奉恩寺は白の提灯が飾られていた。本堂そばの地蔵殿では法事のようなお参りが行われていた。
国立中央博物館では仏像を拝観できた。半跏思惟像である。インド以来のモチーフとして出家を悩み思惟する釈尊の姿がある。あくまで仏伝の一場面であるが、その姿が朝鮮半島に伝えられ、やがて弥勒信仰と重なり、半跏思惟の姿は弥勒菩薩として信仰されるようになった。さかんな弥勒信仰のなかで新羅では大きな像が造られ現在まで2体が伝えられた。そのうちの一体を拝ませていただいた。その姿は日本に伝えられ、広隆寺の弥勒半跏像、中宮寺の弥勒半跏像として残されている。大きな半跏思惟の弥勒菩薩は世界でこの四つしかない。日本の仏教の原点とも言えるこの仏像の姿は朝鮮半島でうまれているのだ。
博物館では、シルクロードの文物にも出遇えた。大谷探検隊将来品の一部である。大谷光瑞(鏡如上人)の門主辞任後、実業家久原房之助が「二楽荘」にあった収蔵品を買収し、朝鮮総督、寺内正毅に送りました。そして、これらの文物は朝鮮総督府におさめられたのです。終戦後、旧朝鮮総督府は博物館となり一部は展示されていました。現在新しくなった中央博物館に移されています。トルファンの伏羲女?図、トユク千仏洞の蓮華文の甎、ベゼクリク千仏洞の壁画、ホータン出土の小仏など拝観しました。ベゼクリク千仏洞の壁画は現在龍谷ミュージアムで復元されている。中央博物館には壁画断片60点のほか約1,700点の遺物などが収蔵されているそうだ。
チーズフォンデュ
昨日12月8日は成道会。お釈迦さまがさとりをひらかれた日だった。毎年この日には我が家ではチーズフォンデュにする。今年は所用で私が不在、息子も塾があったので一日遅れて9日に行った。我が家にはクリスマスはない。仏教徒として大事なこの成道会を過ごす。お経にはさとりは五味の譬えが出される。五味とは乳、酪、生蘇、熟蘇、醍醐のこと。さとりはまるで牛乳が熟成し最後は醍醐味となるこの上ない味になることがたとえられている。醍醐はこの上なく熟成されたチーズのようなものとも言われる。だから我が家では毎年チーズフォンデュなのだ。食事の後はおさとりケーキ。プレートには「お釈迦さまありがとう」と書かれている。恩徳讃をうたってケーキカット。もちろん子どもたちにはプレゼント。毎年子どもたちは楽しみにして過ごしている。
ご本堂でご門徒の方のご葬儀があった。尊い仏縁だった。阿弥陀如来さまの前で厳粛におつとめできるとこと、こんなに尊いことはない。亡き方はお浄土にお生まれになり、仏さまとなられた。浄土に帰られたと受け取らせていただく。そしてさらに、仏さまとしてただちに私たちのこの世界に還ってこられ、縁ある私たちをお導きくださる。亡き方のおかげでお寺にお参りできたと何人もの方がおっしゃった。いや、私こそがお導きをいただき、育てられたと思う。
かえる<帰る、還る> 浄土真宗の大きなテーマの一つだ。お浄土に生まれることを「浄土にかえる」と言われる。「いのちのふるさとにかえる」と言われた方もあった。もう一つは、浄土に生まれ仏となり、今度は、この私達の迷いの世界に還ってきて、衆生を救うはたらきをされることを還相摂化(げんそうせっけ)という。教章には「この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。」とある。
9月11日(日)家族5人で西本願寺親鸞聖人七五〇回大遠忌法要にお参りした。私は出勤もさせてていただいた。高校生、中学生ともなるとなかなか予定が合わないが、半年前からのやりくりでようやく実現。私は今47歳なので50年先の800回忌には生きていれば97歳、もう無理だろう。でも子どもたちはそれぞれ67歳、65歳、63歳だ。50年先の大遠忌にも是非ご縁を作ってほしい。
このご縁に、次男が帰敬式を受式した。近年は法名の内願ができるようになったので2ヶ月前に願い出ていた。200人を超える方とともにお二人のお手代わりのお剃刀をうけ、ご門主さまからご教諭をいただいた。長男、長女はすでに9歳の時に受式している。
縁起…。あらゆるものがひとつの全体としてつながりあい、密接に関係しあっており、わたしたちはそのなかの一部でありながら、しかもそれがそのまま全体の生命を生きている。縁起の道理がわかると、壮大な世界のちっぽけな自分という感覚から、壮大な世界の構成員の自分という考え方になれたる。壮大な世界の不可欠な構成員である自分。
悪意より善意の方が怖い
悪意は歯止めがきくが
善意は歯止めがきかない
悪いことだという後ろめたさがある時は、歯止めがかかる。だからある意味でセーブがきく。しかし善意には、そういうストッパーがない。善意だからどんどんやる。歯止めがきかない。善意が人を傷つけ、さらにそれを重ねて追いつめてしまうこともある。悪意でしたことならば反省できるのだが、善意でしたことの反省はなかなか難しい。言い訳したり、開き直ったり…。善意でやったことだから。
大臣が辞任。荒い言葉遣い、配慮を欠いた言葉、上からの言葉であったようだ。心の現れが言葉である。とすればどんな心だったのだろう。
私たちはたくさんの言葉を毎日使う。失言もあれば、言い過ぎもある。人を傷つけてしまうことばもある。無量寿経に「言行忠信表裏相応」とある。そうせよというのだが、なかなか難しい。心と反対の言葉が出てくることもあるからだ。表裏相応これはもっと難しい。思ってもいないこと、おべんちゃらも出てくる。私たち人間の言葉は一筋縄ではいかない。だからこそ言葉を大切に使いたい。
一つの言葉でけんかして 一つの言葉で仲直り
一つの言葉で頭が下がり 一つの言葉で心が痛む
一つの言葉で楽しく笑い 一つの言葉で泣かされる
一つの言葉はそれぞれに 一つの心をもっている
きれいな言葉はきれいな心 優しい言葉は優しい心
一つの言葉を大切に 一つの言葉を美しく
南無阿弥陀仏は言葉となってくださる仏さまだ。煩悩に染まらない名前の仏さまだ。真実の言葉だ。
宇部は今日は大雨。道も川のようになっている。川や用水路は流れの速い濁流となっている。大雨は排水溝の許容量を超え、道路は冠水している。
今朝の新聞に明石市のため池で3人水死の記事がのっていた。やりきれない思いだ。「池で遊ばないように」指導しておられたという。危険なところには近寄らないよう、そんなところでは遊ばないよう指導しなければ、フェンスや看板を!そういう論調が目立つ。たしかに今の状況ではそれは必要だ。しかし危険な状況、環境を作ったのは私たち大人なのではないか。
多くの川で河川改修がなされ、岸辺はなくなった。中にはつかまるところのない垂直な壁がそそり立ち、さらに多いかぶさるようにコンクリートの護岸があるものもある。急峻な斜面のコンクリート岸やコンクリートブロックによる川やため池がほとんどだ。こんな川やため池に落ちたり、足を滑らせたらつかまるところがない。多くが洪水対策、灌漑利用優先のために作られたものだ。
幼い頃、川や池で遊んだ人は多いだろう。私もカメやフナ、ザリガニ、ゲンゴロウやミズスマシを追っかけた思い出がある。子どもは川や池で遊びたいものだ。川や池そして海も遊び場だったのだ。危なくない川や池で遊べばよいではないかという声もあろうが、身近にそんな小川があるだろうか。小川はすべてコンクリートの溝となっている。「春の小川はさらさら行くよ 岸のスミレやレンゲの花に‥‥」「メダカの学校は川の中、そっとのぞいてみてごらん‥‥」これらの歌の風景は私たちの身近にはもうない。
河川改修、のっぺらぼうのコンクリート護岸によって子どもたちから遊び場を奪い、そこにすんでいた魚や虫、鳥たちのすみかも奪いとり、そんな場所を危険箇所にしたのは私たち大人ではないか。人と水との関係を絶ってしまったのがこの垂直あるいは急傾斜ののっぺらぼうのコンクリートなのだ。
インドの寺院等にある人工池は岸が階段となっている。水量が変わっても岸辺に立てるのだ。それは沐浴をするため、人が岸に立ち、近づくために考えられたものだからである。ガンジス川の沐浴の地ベナレスも階段状の岸辺だ。
何日か前、テレビでブランチブロック工法が紹介されていた。自然石と鍵形ブロックのブランチブロックによる護岸工事の工法である。自然石の石組みには空間もありそれが魚のすみかともなるという。人もよじのぼることができる。流速も押さえ、やがては自然の植生も回復する。
もちろんこの階段岸やブランチブロック工法ですべての事故が防げるわけではないだろう。しかしこれらは川といのちを繋ぐことができる川岸の考え方だ思う。大規模な予算をつぎ込む親水公園のような特別な環境はそう簡単にできるものではない。私たちのすぐそばの河川や水路がもう少し水と人、いのちの関係を大事にするものとなってほしいと思う。
それは自然と人間の関わり方全般にわたるものであると思う。森や川、山や海と私たち人間がどう関わっていくかという問題でもあると思う。地球と人間の関わりを考える大事な方向性が見えてくるのではなかろうか。
少しつぶやきすぎました。
今日(7月3日)、今年はじめてニイニイゼミの声を聞いた。ニイニイゼミの初鳴きだ。
今日のだるますくーる(6月25日)では、裏山のコナラやタブの木でノコギリクワガタやヒラタクワガタを11匹みつけた。大アゴの立派なオスも3匹いた。子どもたちも大喜びだった。
奉請弥陀如来入道場 散華楽(ぶーじょうみだにょらい にゅうどうじょう さんげらく)……。葬儀をはじめ、法事などの仏事、法要はこの三奉請(さんぶじょう)ではじまることが多い。阿弥陀如来、はじめ十方諸仏如来の入堂を請い、散華をもってむかえる。いや、常にはたらいてくださっている阿弥陀如来のはたらきを讃嘆するのである。
仏典に節をつけたもので儀礼に用いる宗教音楽を声明(しょうみょう)という。浄土真宗ゆかりの私たちが縁あってはじめて耳にするのが、この三奉請であることが多い。いやもっと身近には正信偈和讃がある。浄土真宗では、声明を誦することは「仏徳讃嘆」であり「報恩」のいとなみである。
三奉請(さんぶじょう)
洋の東西、宗教の違いによらず、宗教は音楽との関わりが深い。音楽的要素は宗教には不可欠なのだ。信仰の吐露であり発露でもある。また宗教的高揚も表現される。声楽、声明といった人間の声、歌ばかりでなく、楽器による表現も大切なものだ。仏教では声明と雅楽である。浄土真宗でも大法要は必ず雅楽が用いられる。
明治になって西洋音楽やキリスト教の賛美歌などの影響もあって、仏教各宗派でも仏教音楽がさかんに用いられるようになった。山田耕筰、中山晋平、伊藤完夫、野口雨情、北原白秋など著名な作曲家、作詞家もかかわり多くの仏教讃歌が作られ、用いられている。東京築地本願寺にはパイプオルガンが設置され諸行事に荘厳な音色がながれている。
浄土真宗本願寺派では現在、教学伝導研究センター内に、仏教音楽儀礼研究所を設置し、仏教音楽や儀礼の研究、振興、普及、提言が行われています。
友人と安蔵寺山に登った。島根県最高峰1263mの山だ。山頂近くには自然林が残っている。ブナを主木とする冷温帯林だ。このブナの森は、日本では東北〜中部の雪の多い主に日本海側に見られ、近畿、中国と西に行くほど海抜の高いところでしか見られない。西中国山地では人工林も広がり、限られた地域にしか残っていない大変貴重な森だ。今回はそんな森を歩く山旅だった。
ブナの森は明るく、いろんな種類の植物が育っている。奥谷からの沢沿いにはブナ、トチのほか、クルミ、カツラの大樹。低木はガクアジサイ、林床にはシダが茂っていた。沢の清流にはワサビが栽培されている。尾根を歩くようになるとクルミやカツラは姿を消し、ブナ、トチ、カエデ、ミズナラ、ホオノキなどの大樹が目立つ。低木にはクロモジ、林床はササとなる。樹齢600年のミズナラの大樹もある。湿気や標高、環境に自分に一番適したところにすみ分け、それぞれに輝いている。
ギンリョウソウ、チゴユリ、イワカガミなど花にも遇えた。ホトトギス、ツツドリ、シジュウカラなど多くの鳥の声も聞いた。ヤマドリらしい羽音にびっくりし、ヘビにも驚いた。姿は見えなかったがキツツキ(アオゲラかな)のドラミングもすぐそばで聞こえた。この森にはクマも訪れるそうだ。テンか何かの糞もたくさん見つけた。もちろん分解者も必要だ。キノコも大事な役割を果たしている。自然の森はいろんな生き物を育む。どんないのちも、どんな個性のものも息づいている。これほど多くのいのちが生きてゆけるとは、それらの獲物があり、そういう条件、環境が整っているということでもある。
ギンリョウソウはキノコから栄養をもらっている。ホトトギスやツツドリは他の鳥の巣に卵を生み子どもを育ててもらう。そんないのちも森は受け入れてくれている。「あなたはだめだよ、お前は棲めないよ」とは言わない。
こんな森を訪れると、自分色に周りを染めようとし、そうならないと腹を立てている自分が小さく見え、恥ずかしく思える。山に登ったあと、私は少しだけ優しくなれるような気がする。またすぐ元通りになるのだが…。
夜11頃、車に荷物をとりにいくために外に出た。裏山から「ホッホ、 ホッホホッホ」声が聞こえた。フクロウの声だ。「ウッホ 五郎助奉公」「ホッホ ボロ着て奉公」などと聞きなされる。身近なところにフクロウがいるなんてとてもうれしい。フクロウがいるということはその獲物となる小動物も、その小動物のえさも、環境も整っているということ。まだまだいのちが息づいているということだ。
東北、関東の大震災。友人、知人は大丈夫なのだろうか。安否を気にしていた友人から電話がかかってきた。この夏にも蓮光寺に来てくれる予定の名取市の友人は、東京にいて無事。名取市の家族も大丈夫とのこと。安心した。もうひとりの心配は、大学時代の同じクラブの友人。釜石市の職員であり、家は隣の大槌町にある。無事でいてくれればと願う。
私は以前、東北教区の常例にお世話になった。布教に訪れたお寺は、そしてそのご門徒は、大丈夫なのだろうか心配である。本願寺もすぐに支援はじめている。第一陣はすでに仙台別院に到着したそうだ。
穏やかな立春。あたたかい日中となった。昨日3日に下関で梅の開花が報告されていた。それでは宇部の我が家でも咲いているのかなと境内に出た。梅が二輪咲いていた。昨日の開花宣言という情報を知らなければ今日目にすることもなかったのかもしれない。
芭蕉の弟子、服部嵐雪は「梅一輪、一輪ごとのあたたかさ」と詠んだ。一輪咲くごとに暖かさが増すことをうたった句だ。お念仏も同じかもしれない。お念仏一声もうすごと、お慈悲の暖かさを感じることができる。「念仏一声、一声ごとのあたたかさ」とでも。
ようやく年賀状を印刷している。頼みの輪転機の具合が悪く、はがきに印刷できなかったらメンテナンスを終え今日から印刷。追われ続けてようやく。今年こそは、来年こそは早めにと思いながらまた今年も後数日になってあたふた。変わらないなあ。
我が家はクリスマスはない。もちろん理由は仏教徒だからである。子どもたちも幼い頃は何でサンタさんは来ないの?と疑問を持っていただろうが、我が家では12月8日の成道会をお祝いしてプレゼントもある。さらに20日が私(お父さん)の誕生日だから、プレゼントのお返しもある。
娘はクリスマス云々はあまり関係なく、いや少し気にしながらではあるが、ここ数ヶ月は毎週のようにケーキを作っている。シフォンケーキが得意だ。今日はリンゴをたくさんいただいたからとアップルパイを作っていた。
12月20日、今日は私の誕生日。私がこの世に生を受けたのは、いや母親の胎内から出てきたたのが東京オリンピックのあった昭和39年の今日。満46歳になった。ヒトとしての誕生から46年。果たして人となれたのかどうか。信心をえて仏になることが定まった時、正定聚が仏になる身と生まれ、そして浄土に生まれ仏になる時が本当の生であろう。
12月8日はお釈迦さまがおさとりを開かれた日、成道会。お寺では今週いろいろな行事をした。5日は成道会記念の子どもたちのもちつき大会。6日は仏教壮年会の忘年会。7日は若いお母さん方のケーキ教室でチーズケーキ。さしずめ成道会仏教週間とでも。例年なら8日は家族でチーズフォンデュだが、今年は所用があったので5日に繰り上げて行った。
以前、インドに旅行したおり、ブッダガヤでチベットから来ていたお坊さんと片言の英語で話したことがあった。日本から来た僧侶であることを告げると「あなたはいつここに来たのか?」と問われた。「今日来た。」「いつまでここにいるのか?」「明日までだ」と答えると、「なぜい一日しかいないのか、私はすでに3年ここにいる」とのこと。その方はブッダガヤーでおさとりをひらかれたお釈迦さまのお心をいただかんと問い続けておられたのだ。さとりをひらくことこそが私たちの目指すところである。
成道は仏教の出発点である。12月8日、仏教徒は大事にしたい日だ。
『涅槃経』には、さとりについて、五味の譬えをもってとかれる。五味とは乳、酪、生蘇、熟蘇、醍醐のこと。牛の乳は、酪、生蘇、熟蘇、と精製され、最後には最上級の醍醐へと熟成される。この醍醐味こそが涅槃であり仏性であると説かれている。
この醍醐味とは最上級の熟成されたチーズのようなものであるとの説がある。そこで我が家ではこのチーズにかけて8日にはチーズフォンデュをするのです。チーズケーキもしかり。そういえば、釈尊の成道の前、スジャーターから受けた供養は乳粥であった。
どうでしょう。みなさんもチーズフォンデュをかこんでご家族でお祝いの集いをしてみては?そして牛乳やチーズにまつわるお釈迦さまや仏教の話をお忘れなく。コーヒー、紅茶にはスジャータで話題を!
25日、26日は山口教区の夏季布教大会。都濃西組引き受けで周南市の二ヶ寺を会所として行われた。住職も一日目に出講。多くのご門徒の方々のお念仏の尊さに気づかせていただいた。
27日は長門市。大津東組仏教婦人大会に出講。暑い中でもご満堂のご聴聞。尊い仏縁だった。
明日28日は午前は3軒のお宅のご法事の予定。昼からは下関のお寺に出講がある。お念仏のお心を伝えるのが真宗僧侶の仕事。十分なお取り次ぎがでず心苦しいことだが、でも聞いてくださるからできること。お育ての中に私があるんだと気づかされる。
日本は蒸し暑い。シリンホトの草原は暑いには暑いが乾燥しているので、木陰は心地よい。木の大切さがわかる。今日、明日と日本海側のお寺に盆法要のため出講。暑い中にも多くのお参りがあった。ご聴聞のお志に頭が下がる。熱心に聞いてくださるおかげで私も話すことができる。私の留守中、高校二年生の長男も法務を手伝ってくれる。今日明日とも2軒のお宅にお参り。親子共々ご門徒方のお育てにあわせていただく。尊い仏縁だ。
中国に行っている間にご葬儀があった。父がつとめてくれた。亡くなったのは住職の中学校の時の同級生。突然のこと。ご家族のことを思うと言葉にならない。死は老少不定(老いも若いも決まっていない)と聞かせていただいているがやりきれない。死の縁無量(死に至る縁は限りなくある)である。しかし阿弥陀如来さまは死に様を問わない。どんないのちも必ずお浄土に生まれさせ仏にさせると誓われている。私どもは今生に生を受けたかぎり必ず死に至る。でも死で終わらせない、浄土に生まれさせると仏は誓われている。
浄土をいただいて今私たちは生きている。私はどこに行くのか、それが本当に分かった時、亡き方の行き先がわかる。
アミダの森植樹から帰ってきた。ここ5年の中国のかわりようはすごい。シリンホトも空港が新しくなり、警察や裁判所、官庁街が新しくできていた。博物館も立派だ。新しい道路、風力発電所などなど。まるで浦島太郎になった気分。政府の方針でもあろうが、ヒツジの放牧が見られなくなった。かわって牛。牧畜の民の生活も激変していることだろう。小学校も統合相次ぎ、交流を重ねていた育才小学校も廃校。子どもたちは都会の学校に。寄宿や遠距離通学。発展という名の陰で人々のこころはどうなのだろう。
仏事の勉強会をした。18名の方とともに。テーマはお盆。浄土真宗のお盆の定義は難しい。亡き方のご苦労に気づき、私が仏法に出会う縁である。お盆だけ先祖が還ってくるのではない。常にはたらいてくださる如来さまに出会わせていただく縁である。
7月6日、京都西本願寺の聞法会館で行われた浅井成海先生を偲ぶ会に行くことができた。ビデオを通して先生のご法話に出会えた。夜は平安高校の先生と話すご縁ができた。尊いご縁だった。でも私はどうだったか、お酒の力もあって昔話などべらべらしゃべり、自慢話ばかりしていたような気がする。申し訳なかった。こちらが話していては人の声は聞こえない。まず聞くこと、それが大事なのに。
よく降りました。気をもんだ子どもの球技大会も曇天のもとなんとか行われた。午後から少し気温が上がった。ニイニイゼミが鳴きはじめた。今年の初鳴きだ。いよいよ暑くなる。
朝、墓地の草刈りをしていて、ふとそばのタブの樹を見るとクワガタムシが木を登っていた。大きなヒラタクワガタだ。7センチにもなる。小学校の時以来(35年ぶり)の大型だ。まだまだこんな大きなヒラタクワガタが育つ自然豊かな環境であることに安堵した。タブの樹が何本か大きく育っているし、林床には朽ち木や椎茸栽培のあとの木が多くあるのが一因かもしれない。
学校から帰った息子に見せると大喜び。早速、しばらく飼うことになった。でもヒラタクワガタの噛む力はとても強く、なかなか放さないので、こわごわ触っている。
大学時代の恩師浅井成海先生が亡くなられた。そのお人柄を通して、深いお念仏の味わいを色々教えていただいた。一昨年春に蓮光寺にも来ていただいた。来年の御正忌報恩講にもお約束していたのにかなわず残念。福井の敦賀浄光寺で今日ご葬儀。電報を打った。「浅井先生、今生のお導きありがとうございました。これよりはお念仏申す中に、先生に出会わせていただきます。南無阿弥陀仏。」お浄土にお生まれになり、ただちに還って私たちをお導きくださいます。
今朝はもうホトトギスの声は聞かれなかった。ほかのところへ移っていった。蓮光寺の裏山が渡りの中継地、休息地なのだろう。一日だけお寺の森で休んでいったのか。
今、FM山口のラジオ放送(火、木曜の朝7:30)の中で山口別院からコマーシャルが発信されている。
笑っている人
泣いている人
輝いている人
すり減っている人
元気な人
疲れている人
みんなお寺で一休み
寺の原語はビハーラ、安らぎの場、安住・休養の場という意味もある。お寺をあなたの一休みの場にしてくださればとおもう。
今朝はホトトギスの声で目が覚めた。さっそく小六の息子が「おとうさん、特許許可局って鳴きよる鳥、あれなんていう鳥?」と聞いてきた。「あれはホトトギス」そんな会話から今日の一日が始まった。「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」ホトトギスは初夏の代名詞でもある。自らは子育てをしない鳥だ。ウグイスに托卵して子育てをまかせる。
30日は日曜日なのにご法事が一件もなかった。蓮光寺ではほんとに珍しい日だった。なので久しぶりに家族で出かけた。前日30日午後から九重に。宿泊は壁湯温泉、川沿いの岩壁に湧き出る自然の温泉の宿。秘湯だ。翌日はくじゅう、男池から黒岳原生林を登山。子ども連れなので頂上までは行かなかったが、ソババッケまで森を楽しむ山登りができた。森の素晴らしさに、鳥の声の響きに心洗われる一日だった。
昨日15日は近隣のお寺の仏教壮年会のゴルフの会があった。66名の参加。いい天気の中で親睦のゴルフ大会であった。私はゴルフはしないが、ゴルフを通してのお寺の縁もできる。表彰式をかねた懇親会がお寺で行われる。本堂で讃仏偈のおまいり、そしてお話も聞く。
日本でのゴルフの草分けの一人が僧侶である大谷光明師。本願寺第22代門主鏡如上人(大谷光瑞)の弟であり、23代勝如上人(前門さま)のお父上である。22歳で英国に留学。帰国後日本のゴルフ界に大きな影響を与えた。数々のアマチュア選手権に名を残したほか、川奈・大島コースなどのコース設計も手がけた。また英国皇太子が来日されたとき、皇太子(昭和天皇)と親善マッチを行ったときにペアを組んだのも大谷光明師であった。
ゴルフと本願寺不思議な縁だが、大谷光明師は「法律は悪人が存在するものとしてつくられているが、ゴルフルールは、故意に不正を犯すプレーヤーはいない、という前提でつくられている。」という言葉を残している。ルールの正しい解釈と普及に努めたことで知られる。どこか仏教に通ずる香りがしないではない。
ひさしぶりのつぶやき。新緑が美しい境内。山も輝いている。甲高い美しい声で鳥が鳴いている。キビタキだ。声を聞く私も心地よい気持ちになる。姿も美しいが、今年はまだその姿を見せてくれない。森の高いとところで鳴いている。
境内の裏山はシイの森だ。いろんな鳥が訪れてくれる。かつてはアオバズクの声を聞いたことも。今年は最近までアカハラの美しい声が聞かれた。そして今はキビタキ。例年どおりならもう半月かひと月ぐらいこの鳥の音を楽しむことができる。姿も見れるだろう。
キビタキ
今日は祖父、伊東順恵の祥月命日。私が小学校4年生のときに亡くなった。16日はまた親鸞聖人の命日。私たちの宗派では毎月16日に精進にして来た伝統がある。その日は肉魚を食べない。そのことを通して命を奪ってしか生きていけない我が命を考えるのです。その精進に人一倍厳しい祖父だった。あらためて食を通して私のいのちを考えたいと思った。
柳井市遠崎(旧大畠町)の妙円寺、仏教婦人会の法縁に出講。妙円寺は江戸末期、月性という僧が出た寺。吉田松陰とも親交があった。本願寺の明如上人に諸外国からの侵略を防ぐという海防の必要を説いた。月性の私塾、清狂草堂からは維新に活躍した人材を輩出した。赤根武人、世良修蔵、大楽源太郎、また後の本願寺を改革し支える大洲鉄然らである。
男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山 月性
男子たるもの一旦志を立てて郷里を出るからには、この本懐が成就しない限り再び帰らない決意である。骨を埋めるのにどうして故郷の墓地に執着しようか。世の中には、どこへ行っても骨を埋められる青々とした墓地があるではないか。
13日、14日と永代経法要を勤めた。少し寒かった。初日は100名、二日目は120名ほどのお参り。お斎は精進料理。境内でとれたタケノコも入っている。ホーストラリアからのホームステイの方と一緒に掘ったタケノコだ。ご法座は多くの方によって支えられている。数日前の境内清掃、前日の準備、お斎の準備、総代さんの受付、会計、そしてご講師、何よりお参りくださる方々。私どものお念仏のご縁がかくも多くの方のお力の支えられている。
今日から3日間、オーストラリアのニューカッスル(Newcastle)市からの中学生2人がホームステイ。英語の苦手な我が家にとってドキドキのホームステイのスタート。今日は和食。箸の使い方も少し練習して来たみたいで、ぎこちないながらも箸を使って食事。会話も......。さすがに子ども同士、トランプで盛り上がったようだ。ニューカッスルはオーストラリア6番目の都市。石炭が取り持つ縁で宇部市と姉妹都市。そのご縁で。
13日からの永代経法要を前に境内の清掃奉仕。山陽小野田地区の方々にお願いした。40名の方が来てくださった。1時間30分程で前庭から後ろの庭まできれいになりました。みんなのお寺ということで7年前の住職継職以来、大きな法座の前に地区ごとにお願いしている。掃除をご縁に初めてお寺に来られる方もあって一つの縁になっている。
今日ははなまつり。学校帰りの子どもたちが山門のところによってくれました。およそ150人の子どもたちがお釈迦さまの像に甘茶をかけてくれました。お釈迦さまはたくさんの花で飾られました。山門でのはなまつりは3年前からはじめたのですが、楽しみにしている子どもさんも多く、「今年も来たよ」といってくれます。うれしいことです。
朝、境内の裏手でキジが鳴いていた。ノドの奥から叫ぶような鳴き声である。昔はよくいたが、久しぶりに聞こえた。キジが戻って来た。
午後からは華松組の同朋研修会、夜は連研慰労会。多くの方がご聴聞された。熱心に聞かれる姿勢が尊い。それに応えるほどのご法話ができない、反省。何か思いだけが空回り、そんなかんじだった。申し訳ない。でもお育ての中にあることは確かだ。ありがたい。
教学研究所で仏像について編集の方とあれこれ話した。仏像の見方の大事なところの一つが「手」である。手が仏さまの説法や心をあらわす重要なポイントだからだ。手を見て仏さまの心をうかがう。
私たちの周りの活字で、新聞は一日、週刊誌は一週間読まれますが、しばらくすると捨てられるでしょう。ラブレターでも50年持ち続け、繰り返し読んでいる人はいないでしょう。
お経ができて、すでに2000年を超えていますが、お経はこれほどの時を経ても読まれています。お経に説かれるお話は今の私を問題にするからです。
先日観た演劇のアジャセのお話。これは『観無量寿経』、そして『涅槃経』に載せられた2500年前のインドの王舎城の悲劇の物語です。でもその主題は、今の私の問題なのです。私のような悪人が救われるのかということです。それは親鸞聖人の問いでもありました。お経は昔物語ではなく、今の私の生き様、そして私の救いを問うものです。
だからこそ、多くの経典が、命がけでインドからシルクロードをへて中国、朝鮮半島、日本へと伝えられたのです。
中国ブロック親鸞聖人750回大遠忌記念の創作劇を観た。広島ALSOKホールには満員の観客。親鸞聖人の心の中を表現した演劇。涙、涙の感動。わが心の奥をえぐられるような深い感動であった。
私のような悪人が救われるのか。親鸞の問いは、そのまま王舎城のアジャセが救われるかどうかである。父ビンバシャラ王を死に至らしめたアジャセ。その深い悩み、葛藤、後悔、心が演ぜられた。観る人皆わが心を問うたであろう。未生怨というアジャセの別名はほかの誰でもない、私のことではないかと思った。縁に触れれば何をするか分からない、親殺しまでしかねないこの私ではないか。
亡くなられたから臨終のお勤めにきていただきたいとの電話をいただく。昨日まで何ごとももなく、何の病気もない、毎日笑顔で働いておられた。昨日の昼はご近所の人とも立ち話も、夜は家族で談笑。朝起きてこないので見れば息がなかった。夜中に心筋梗塞かと。家族も、親族も突然のこと、何ということか。人のいのちは分からない。6日に葬儀。
今いのちあることの不思議さを思う。
総代会議。今年一年の予定を検討。総代さんのご意見をいろいろ聞かせていただく。住職の目からは見えないいろいろなことに気づかせていただく。秋、11月21日にいのちの講演会をすることに決定。講師はビハーラ実践を行っておられる長倉伯博先生。コンサートも計画。親鸞聖人750回遠忌記念行事として広く多くの方に縁をと計画。あわせて蓮光寺に古くから伝わる法物(ほうもつ)を展示するlことに決定。
はや3月。今月は特に忙しい。5日は広島にて観劇、6、7日は法事満載。6日午後は山口の幼稚園に保護者向け講演。7日はお寺で自然観察会も。8、9日は東広島に出張。10、11日の京都出張はなくなったが、山口別院での会議、お寺での懇親会などがそれぞれ予定に入った。12日は若僧会。13、14は法事満載。15日は代議員総会。..掃除、彼岸会、めまぐるしく。それぞれの準備も....。葬儀も入ることだろう。見落とすことがないよう、そしてご門徒の方々の一言一言にも耳を傾けなければ。頑張らねば。
午前中は、自坊での法務。午後は婦人会の役員会、今年一年の計画や予決算を検討いただく、秋の公開講演会などの予定を検討。そして老病死についての法話をする。老病死の解決こそが仏教の目的。老病死を忌避し、その反対ばかりを願っても解決にはならない。老病死をどう受け止めていくかが問題なのだ。夕方は小郡の山口別院で会議。
25日。組内(近隣のお寺のグループを組<そ>という)のお寺の前住職の葬儀に出勤。93歳。笑みを絶やさないお人柄、言葉ではなく、後ろ姿でご門徒をそして縁ある私たちをお導きいただいた。言葉がすべてではない、いや言葉はかえって邪魔をし伝わらないこともある。
夕刻からは湯田に出張。布教団の総会、研修会、懇親会。葬儀のため遅い参加となったが、お酒をまじえて布教、伝道のこと、お寺のこと色々語りあい、教えられるご縁であった。
今日は暖かかった。20℃。境内ではウグイスの鳴き声が聞かれる。「法を聞けよ」と。昼休み、少し散策した。早くから春のいのちが輝きはじめていることに気づいた。ハコベ、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ナズナ。どんないのちも輝いている。
22日、23日は京都に出張した。西山別院得度習礼所での講義。これから僧侶になろうとする若者、主に大学生に浄土真宗の教えの基本的なところを話した。初めて出会う人ばかりである。これから様々な人と出会って教えにふれ本当の僧侶、魅力ある僧侶にになってほしい。
この出張中、仕事での出会い、懐かしい人との出会い、様々な出会いがあった。仕事や人間関係で悩んでいる友の話も聞いた。思いどおりにならない人生を皆生きている。私も。でもそんな出会いがその悩みを解決してくれることも多い。人間が一生のうちで出会う人の数はわずかだろう。でもその出会いが人生を変える。出会いが人生を深くする。
午後、山口市小郡の山口別院にて会議。親鸞聖人の御絵伝の解説本の編集会議。じっくり御絵伝を味あわせていただく尊いご縁だ。新しい発見がたびたび。ひとつは3幅目、越後の国をこえて稲田に赴かれる場面。右の絵は越後の海とばかり思っていたが、平松先生は古いご絵伝などから下野の室の八嶋の池であるとされる。そういえば橋が架かっている。
友人のお祖父さまのご葬儀が蓮光寺本堂で勤められた。ご門徒のご葬儀がお寺の本堂で勤めることができるのはなにより住職にとってうれしいこと。救いの光あふれる本堂。場がいかに大事か、他では味わえない尊さがある。ただちにお浄土にお生まれになった亡き方は、すでに還ってきてまるでお釈迦様のように私たちを導いてくださる。お孫さんも、ひ孫さん方もみんな仏さまの光に中にある。そんなおはたらきを如来さまの前で味あわせていただく。
そんな尊いご縁でありながら、私は落ち着きなく、慌ただしくばたばたしていた。要らない言葉ばかり、そして肝心なことを言わずじまいの自分の行いを深く反省。申し訳なかった。地に足をつけたような歩み、如来さまにまかせたような人生の歩みでありたいと反省。
朝、臨終のおつとめ。1月9日にお見舞いに行った友人のお祖父さまが昨日亡くなられた。98歳。本当に元気であられたのに、もう一度お会いしたかったのに。夜はお寺で通夜。ご遺族とも亡き方のご縁、仏さまのこと、いろいろ聞かせていただく。亡き方にめぐまれた仏縁。尊いことだ。
今日はお釈迦さまの亡くなられた日、涅槃会。柳井のお寺、涅槃会の法要にお話に出講。多くのご門徒とおもにお釈迦さまのご生涯にふれながらともどもに仏法を聞かせていただいた。老病死を見つめるところからお釈迦さまの求道がはじまる。老病死を遠ざけ忌避する今の社会ではいのちの本当の意味は見えてこない。自分の問題として、自分の愛する人の問題として老病死を見つめるところにいのちの意味が見えてくる。
柳井からの帰路、書店に寄った。子どもに涅槃会を縁として本を贈るためである。
今日は仏教徒にとって大事な日だ。
9日、普賢晃寿先生の門下生の勉強会、聞思会があった。会所である博多萬行寺に赴いた。キャナルシティの隣、大きな伽藍である。久しぶりに安心論題を学んだ。普段の法務に追われる生活ではなかなかお聖教をじっくり味わうことが難しい。貴重なご縁でもある。懐かしい面々とも出会えた。
行き帰りの電車では鍋島直樹先生の『自死をみつめて』という本を読んだ。「生が美しく尊いように、死も悲しく尊い」身近に、ご門徒に自死が少なくない。考えさせられると同時に、自分の問題としても学んだ。
今日、2月7日は九条武子さまのご命日、如月忌です。
九条武子さまは仏教婦人会の創立と発展に尽力されました。京都女子大学の設立にも関わられています。本願寺第22代鏡如上人(大谷光瑞)の妹であり、九条良致に嫁がれました。ご自身が関東大震災に遭われながらも、被災、負傷された方、孤児の救援に尽くされ、「病める人の母となり友となって、施療とともに精神的な安らぎを与えること」をめざしてあそか病院(東京江東区)を設立されました。築地本願寺の復興にも尽力されました。
昭和3年2月7日震災復興事業の無理をされる中で敗血症により42歳で往生されました。
下関のお寺の仏教壮年会の勉強会に出講。お釈迦さま滅後の経典編集=結集、アショーカ王のことをお話しした。武力を捨て法による統治を行ったアショーカ王。仏教を保護し、その他の宗教も否定することなく大事にした。多民族、多宗教の国を治めるに武力をもってしてはおさまらない、違った考えの人を認め敬うそんな仏教を統治の根底においたのである。
夜は大分県中津市に田畑正久先生の話を聴聞にいった。お東のお寺。田畑先生のお人柄、そして広い解釈に新鮮な感銘を受けた。
今日から2月。少しずつ春の気配が感じられます。声がれが続き、一昨日のお取り次ぎ、昨日のご法事、葬儀でも声が出なくて苦しかった。大事な法事のご縁にも関わらずご門徒には不快な思いをと心苦しく思う。今日、病院に行ったら、「風邪から来たのでしょうが、少し声帯の周りが炎症を起こしているので、声を出さないように、でも無理なんですよね。」もう一週間になる。早く直さねば。
声を出すってあたりまえのことが本当に大変なことなんだと実感。
今日は祖母の命日。お内仏でお参り。
夜、本願寺に勤めていたときご縁のあった大阪の友人から電話。法要出講の依頼だったがあいにくご法事の予定が入っていて断らざるを得なかった。残念。またのご縁を。
先週金曜(1月22日)頃から少しノドの調子が悪い。風邪気味。土日の忙しさと寒さもあってか、月曜日には声がかれ、出なくなった。微熱も。発疹も。25日の通夜、26日の葬儀は父に代わってもらいこの3日間休養。28日の講演をひとつ無理を言って取りやめ。なかなかよくならない。土曜日は出講もあるのに。
13日から16日の御正忌報恩講にはのべおよそ500名の方がお参りくださった。お寺にお参りになり、聴聞の場にお座りになるのはとても難しいことです。多くのご縁がすべてととのったといえるでしょう。庫裏の台所を新築したのでその工事関係の方にもご案内し、20名の方にお斎についていただいた。ありがたいことだ。報恩講のあとの仕事も一段落。この2、3日少し一息ついている。
今日から当山御正忌報恩講。境内4〜5センチの積雪。寒さと雪、例年よりお参りが少ない。本堂には80名ほど。台所のお手伝いの方20名。台所が新しくなって初めてのお斎。うまく使ってくださるか心配だったがなんとかいったのでは。一安心である。
ご講師は明日からなので、今日は前住と私でご法話。準備で疲れているのと法話の準備不十分で法話は全くだめ。ご門徒に申し訳ない。
報恩講最後の準備。餅を盛る。一昨日、棒状にして吊るしておいた餅を切る。それを桶の内側に重ねて盛る。上から締めて桶を外すとうつくしいお飾りに仕上がる。8本のお飾り。初めてのお手伝いの方が多かったが美しくし上がった。午後からは総代さんがたと本堂の準備。幕や仏旗。受付、ストーブの灯油。なんとか明日からの報恩講を迎えられる。これもご恩報謝のつとめ。
打敷、お荘厳、ご絵伝などの御正忌報恩講の準備、境内の清掃。一日中歩き続けた。腰が痛い。明日から寒くなる予報。多くの方にお参りいただきたいのに、ご門徒の方のお参りが心配。
御正忌報恩講のお飾りのお餅をついた。ついたといっても機械。30キロの餅米。新聞紙で作った筒に餅をいれ棒状にして吊るしておく。仏教婦人会の役員さんがお手伝いしてくださる。ありがたいことだ。13日からの報恩講に向け色々準備がすすむ。あれこれたくさん。まだし残したことは....。あと2日だ。
友人のおじいさまを病院に見舞った。98歳。お寺の日曜学校のこと、子どもの頃お寺にお参りしたことたくさん聞かせていただいた。日曜学校での苅屋まで歩いたこと、伊東哲城(原爆で亡くなった大叔父)さんのことなど昨日のことのように。「哲城さんの面影があるのお」とても喜んでくださった。私の行ないなどほんのわずか、すべて先人の伝道のご努力と積み重ねがあってこその喜びなのだと気づかされた。縁を作ってくれた友人に感謝。
浄土真宗はよろこびの宗教。仏法に遇えたよろこび、こんな愚かな私が仏にさせていただくよろこび、今ここに仏に成ることが決まるよろこび、お浄土に生まれさせていただくよろこび。お経にはよろこび(慶、喜、歓喜)の言葉があふれる。その感動を伝えるのが私たちの仕事。
今日は何の日でしょう?
お釈迦さまがさとりを開かれた日、成道会(じょうどうえ)です。
仏教徒の私たちにとって大事な大事な日です。我が家では成道会パーテイです。チーズフォンデユです。「お釈迦さまありがとう」と刻んだケーキも登場。恩徳讃をうたってロウソクを吹き消しお釈迦さまに感謝するのです。そしてプレゼント。子どもたちも楽しみに待っています。仏教徒は仏教徒としての意味ある楽しみの行事をしたいものです。うちにはサンタは来ないけど、もっと大切な南無阿弥陀仏という仏さまが私の心に届いてくれます。
境内のモミジがほとんど散った。まるで紅葉のじゅうたんを敷き詰めたようだ。美しいが、これからは落ち葉の掃除も大変だ。モミジは散って終わりではない。降り積もり、種をまもり、新しいいのちを育む。栄養にもなる。かき集めれば、ヤキイモを焼く火ともなる。そして子どもたちに笑顔までとどけてくれる。
暖かい日だ。少し動くと汗ばむ。11月の初旬の冷え込みがあったからか、暖かいのに紅葉が美しくなった。紅葉が夕日に映えて境内が輝いているようだ。
インフルエンザが身近なところでも少しはやっているようだ。中一の娘の学校もの学年閉鎖。13日まで休み。娘は毎日何をするのだろう。小学校のバザーも中止。楽しみにいたのに残念と小5の息子。
20年前の平成元年の今日(11月7日)即如門主の宇部小野田組組巡教が当山を行事寺院として行われた。記念に植えられた木が何本かある。松がお手植えとして記念植樹された。そしてケヤキの木が何本も植えられた。ケヤキはもう十メートルを超える大樹になっている。
近頃ご門主さまの『愚の力』という本が出版された。いま読んでいる。味わい深い、そして鋭い視点から仏教を語っておられる。
今日は宇部小野田組の連研の最終日。共々に学ばせていただいた。講師の縁に恵まれ、私が一番学びの縁をいただいた。ありがたいことだ。
午後から下関のお寺に出講。お寺の仏教壮年会主催の連続学習会。お釈迦さまの生涯と教えを学んでいる。今日で6回目。みなさんよくご聴聞くださる。今日は四諦八正道のところ。「人生は苦なり」これが仏教の出発点である。
今日から10月。衣替えの季節だが、今日はまだ暑い。ツクツクボウシもまだ鳴いている。
今日は彼岸の中日。彼岸とはお浄土のこと。私が今生きている迷いの世界、この煩悩の世を此岸(しがん)という言うのに対して、煩悩から離れたさとりの世界を彼の岸、彼岸という。私が生まれ行くさとりの世界、浄土である。お彼岸のこの日は浄土を思う日である。浄土を思い、我がいのちの行く先を思う日である。浄土がはっきりすると今の私のいのちが生きてくる。
今年からシルバーウィークだそうだ。レジャー優先、儲け優先、欲望優先になるようなら、困ったものだ。是非お寺に、仏さまにお参りしてお浄土やいのちのことを考えてほしい。
今日は広島原爆の日。私の祖父の弟(伊東哲城)も亡くなっている。被爆国としての日本のすべきことは何か。遺族としての私のすべきことは何か。記念式典で子ども代表が「原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実を見つめます。」と平和の誓いを述べた。善か悪かではなく、自分や自分の国にとって都合がいいか、悪いかではなく、真実を見ていく。大事なことと思った。
今日、九州北部、中国地方、北陸の梅雨明けが発表された。平年よりも15日遅い。もうすぐ立秋(7日)なので夏は数日だけ。残暑が心配だが、不安定な天候なのですぐに秋雨前線の活動になるかも。お隣の韓国では梅雨入り、梅雨明けの宣言は中止されたそうだ。人間の都合で天気は動いてくれない。
8月というのに朝晩涼しい。クマゼミの鳴き声も心なしか寂しい。むしろあまりなかないヒグラシの声がよく聞かれる。お盆参りがこれから本格的になる。慌ただしく過ごすのではなく、仏法を伝える尊いご縁だ。さあ頑張ろう。
まだ梅雨が明けない。7月27日から小学5年の次男と長野県の八ヶ岳に登る予定だった。しかしあいにくの雨。予定を変更して歴史好きの子どもの要望も加味して瀬戸内に浮かぶ大三島(愛媛県)の大山祇神社と姫路城を訪ねた。国宝、重要文化財の刀剣、鎧がこれでもかと展示されている。私も念願が叶った。そして姫路城。城好きの息子もその迫力と大きさに圧倒され、見学行程の長さに疲れてダウン。夏休みの宿題の材料ともなっている。
奈良、京都の仏像を訪ね歩いた。奈良五劫院の五劫思惟阿弥陀像を初めて拝ませてもらった。愚悪の衆生救済のため五劫の長い間思案を重ねられ、念仏によって成仏する道を選んでくださった。そのため髪が伸びたというそのご苦労をあらわす像だ。私の罪深さを示すすがたでもある。
午後は下関のお寺の仏壮の法座に出講。お釈迦さまの生涯を一緒に学んでいる。
夕方から、庫裏/台所の工事の上棟式を迎えた。阿弥陀如来のご絵像を安置し荘厳して門徒総代、工事関係者とともに上棟の喜びを如来さまに奉告した。喜びの儀式が厳粛にお念仏とともに執り行われた。
記念に写真を写してもらった。ところがあとで見てみると、メモリーカードが入っていなかった。私のカメラには記録なし。私が写したのではなく人に頼んだのが一因。残念。よくよく考えてみる。.....。写真はなくても、上棟式は確かに行われた。皆の心の中には厳粛な喜びの儀式の思い出は残っている。写真のための上棟式ではないはず。
下関市小月組の仏婦大会に出講。雨にも関わらず180名の方がご聴聞。蒸し暑い中でもよく聞いてくださる。
雨、待望の恵みの雨ながら、私の都合で善し悪しをつけている。雨は降らないでは文句を言い、降ったら降ったでグチをこぼす。どちらに転んでも不平ばかリの私か。
仏教壮年会、また有志の方がさつき刈り込みの奉仕をしてくださった。お寺はみんなのもの。と言いながら私物化していないかいつも考えさせられる。どうすればいつもご門徒が気兼ねなく、我が家のように足を運んでいただけるか。
下関市民館での前進座の公演「法然と親鸞」を観劇した。専門用語、観経疏の文など役者さん(中村梅之助さん)もすべて間違いなく覚えておられ、さすが。一般の方には少し難しかったセリフもあったかなと。でも演技力で伝わる、気持ちで伝わるところもあるんだと。一昨年から全国公演で、既に200回を超えると。
劔 岳 奥大日岳から
山登りが大好きな私。映画「剱岳、点の記」を観た。劔はわたしも別山や大日から仰ぎ見て畏怖を抱いた山である。
映画は、何のために山に登るのか、いやテーマは何のために私たちは生きているのかということだと感じた。人に認めてもらうためなのか、名誉や地位のために、後の人に知ってもらう為に私たちは生きて、仕事をしているのか。体面や体裁、人と競争するためではあるまい。私自身のためであるのかも。
夕方、次男(5年生)と境内を散歩。墓地脇のタブの木でノコギリクワガタ2匹、駐車場脇のクヌギの木でノコギリクワガタ1匹とコクワガタ2匹を捕まえた。早速飼うことに。
午前は宇部小野田組の総代会総会の開会式に出席。80名からの総代さん方が今後の方針や会計、そしてご聴聞。講師は山口教区教務所長、岩間ご輪番。午後からは大阪のお寺、仏教婦人会の追悼法要に出講。お寺の方みんなが家族ぐるみであたたかく迎えてくださった。お寺のお子さんみんな法衣をまとって出勤、如来さまのお育ての中にあるご家族、尊いことだ。
下関組の仏教婦人会総会に出講。満堂の婦人会会員の方々がご聴聞。「浄土真宗の教章をいただいて」として身近な話題をとおして聞かせていただいた。でも、あれも言えなかった、これも言えなかったと反省ばかり。もっと深く味わえなかったかと。
お隣の組、華松組の連研に出講。お寺について語り合ってもらった。色々なご意見ありがたく聞かせてもらった。「若い人にお参りせよ。といって土日は法務が忙しいからでは、若い人は来れないのではないか。」若い人が来やすい環境づくり、いやどんな人も来やすいお寺ができなければと感ずる。住職だけでなく、門徒とともにお寺作りをしなければと実感。
真宗講座を行った。2時と7時の二回。ご門徒の方が参加しやすい方を選んでもらっている。今年のテーマは親鸞聖人のご生涯(2)。越後流罪を赦された親鸞聖人は、京都へ帰らなかった。なぜだろう。法然上人が亡くなられたこともあるが、法然上人の葬儀が密教的儀式によって執り行われるなど吉水の教団はお念仏の教えがゆがめられてきたこともあるのではという学者もいます。弾圧を経たからでもありますが、親鸞聖人はむしろ新たなところへ、新たな気持ちで赴かれようとしたのではないでしょうか。たまたま善光寺聖のご縁もあって阿弥陀さまの教えを正しく伝えるため関東へ行かれたのではないかと。流罪という転機を柔軟にうけとめ、新たな出発にされたのでしょう。ここから親鸞聖人の布教が始まります。
「仏事作法とそのこころ」と題して仏事入門講座を行っている。今年の参加者は17名。6回連続でお焼香などの作法、お仏壇、法事、葬儀、迷信、お墓について学ぶ。もう今年で6年目になる。
親鸞聖人は家族をもたれた。恵信尼さまと連れ添われた。しかし聖人は晩年、息子善鸞を義絶している。聖人84歳、善鸞54歳。「悲しきことなり」と。善鸞さまも精一杯だったのではなかろうか。その後善鸞さまはどう生きたのか。善鸞さまを開基と仰ぐお寺も少なくない。善鸞さまの子、如信上人は覚如上人によって本願寺第2代に数えられた。そのつながりをどう見るのか。
友が悩んでいる。家族のことで。人間はたとえ兄弟、親子であっても誰一人同じ考えの人はいない。みな価値観が異なる。一つ家に違った価値観を持つ人間が住むそれが家族だが、それが難しい。私の家もそうだ。友として、また同じように家族を持つ人間として何かできないか。何もできない自分が悲しい。友のつらい立場を思うと悲しい。
「人生は苦なり」とお釈迦さまは教えてくださった。苦とは思いどおりにならないこと。思いどおりにしようとすればするほど苦しい。とは言え、自分が我慢して周りに合わせるのも苦しい。
聖徳太子は「彼が是であれば私は非、私を是とすれば彼は非」と。
午後からお寺の仏教婦人会役員の会議。活動についてご熱心に語られた。うれしいことだ。だるますくーるをどう手伝うか。どう関わっていただくか。こちらの思い、婦人会の方々の思い。どういいものにしていくか。いいものができれば。
2時からはだるますくーる。参加者の募集をしなければ。少なくなって来た。
夜は宇部小野田組の連研。善悪について活発な意見が出された。問題提起の講義がうまくいかなかった。申し訳ない。「善悪の字知り顔はおおそらごとのかたちなり」、自分が一番、善悪の字知り顔ではないか。これであと連研も修了式を残すのみ。すこしでも仏法に関心を持っていただけたら。
下関市の二つのご法座への出講。午前は組(そ)の若婦人研修会、午後はあるお寺の仏教壮年会。皆熱心にご聴聞。それに応えられたがどうか。いや、こちらがお育ていただいた。
友人と一緒に山登りの予定で久住に。ミヤマキリシマ満開の平治岳を案内してと思ったが、3日は朝から強い風雨。断念。思いどおりにはならない。でも無駄にはなるまい。山は逃げない。待っていてくれる。また一緒に来よう。
3月初めから、境内でウグイスが鳴いています。「法を聞けよ」つまり仏法を聞いてくれよ、と鳴いていると私たちの先輩は教えてくれました。なかなか仏法に耳を傾けようとしない私に、ウグイスも仏さまのお使いとして仏法をお勧めくださっているのです。
ご親戚のご法事のご縁にお寺に来られた90歳のおじいさまが「90年はあっという間じゃった。わしは、何をして来たんかのう。」とぽつり。何のために生まれ、何のために生きているのか。難しい問題であろう。でも生まれて来てよかった。生きて来てよかったと言える人生でありたいと思った。
阿弥陀さまは十方衆生を仏にさせたいと願われています。多くの人が傷つき、いのちの輝きか失われる戦争はもっともその願いの対極にあるものです。阿弥陀さまの願いに応えてゆくのが私たちのつとめです。非戦、平和は念仏者の大事な取り組みです。その第一歩は声を聞くこと、聞く心を持つことからでしょう。
「聞こえますか?」
京都女子高等学校 三年 山口慈子
アウチ!(英語) アプダ!(韓国語) タング!(中国語) アイエー!(フランス語) 痛い!(日本語)
世界のあらゆる場所で人々は自分たちの痛みを訴えてきました。声を大にして叫ばれた声もあれば、心の奥底で祈るように叫ばれた声もありました。苦しみや悲しみが溢れて流れ落ちるその声に、私達はどれくらい耳を傾けてこれたでしょうか。
昔、転んだだけでも「痛いよー痛いよー」と泣き続けた私。誰かが気づいてくれるまで誰かがどうしたの?」と声をかけてくれるまで道に座り込んでいました。
「聞こえますか?」と突然、町で言われたら、私達の耳に何が聞こえるでしょうか。雑踏の中、話し声、信号機、クラクション、選挙カー、サイレン、大きな音ばかりが聞こえます。もしも雑踏のすぐ先に小さな子供が泣いていても気付くことはないでしょう。
それが私達の耳なのです。近くの大きな音に遮られて、遠くの音や小さな音は聞こえてこない…。
「痛み」、それは誰でも知っている知覚の一つです。自分の痛みを感じ取るのは一瞬の出来事で、とっさの「痛い!」という一言も出ます。しかし、人の痛みを感じ取るのに私達は、いったいどのくらいの時間をかけてきたでしょうか。今、この瞬間に感じ取れる人の痛みがいくつあるでしょうか。
アウチ! アプダ! タング! アイエー! 痛い!
世界中のあらゆる場所で叫ばれたこの言葉。すくいとれない程のこの声に、私達は、今一度、自分の口に蓋をして、静かに耳を傾けるべきではないでしょうか。何処にいてもいても耳をすませば聞こえてくる、遠い場所の小さな声があるはずです。言葉や文化、国が違っても、私達には感じ取れる心があることを信じて耳を傾けることが平和への第一歩だと思います。
千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要・宗門関係学校生徒作文
「高校生の部」最優秀作品
元旦に3人の方が亡くなられた。今日3日はその三つのご葬儀。人間の生老病死は暦には関係なく、いつ訪れるか分からない。新年という区切りは私たちの生き方を見つめる上で大事だが、この暦も便利なように人間が作ったもの。暦に振り回されて人生の大事なものを見失ってはならない。
キノコ好きのご門徒の方が「ヒラタケを採ったので」と持ってきてくださった。キノコ好きの私にとってうれしい贈り物。10センチを超えるような大きな傘、香りもよい。すき焼きに入れて、一杯!これからキノコ談義ができるのも楽しみ。キノコが取り持つ縁の不思議。
ヒラタケはおいしいキノコ。スーパーで栽培品も売られているが味は格段の違い。自然の中で育った本物は格別。
29日、同じ組内のお寺の前坊守さまのご葬儀に出勤。66歳、突然のご往生。人生いつどうなるか分からないとお聞かせいただきながら、やはり悲しい別れ。お念仏弘通のご苦労のご一生に頭が下がる。
葬儀のご縁に佐世保の旧友との再会。亡き方のお仲人によってご夫婦となられたおふたり。ご夫婦で立ち寄ってくれた。尊いひと時を過ごすことができた。
昨日、縁あった方から13年ぶりの連絡があった。「ホームページを見たので」とメールでお便りいただきました。コンピューターのネットは日本中につながっているのだなあとあらためて実感した。世界中の人ともつながるネットの世界。でも、そばにいる人の気持ちは.......。分からないこともある。
テレビでローマカトリック教会のクリスマスミサのニュースが流れていた。キリスト教徒としてイエスの誕生を祝い、平和への祈りを捧げていた。厳粛な宗教儀礼とともに、信仰の篤さとイエスに思いをよせる敬虔な態度に敬意を表したい。
しかし日本のクリスマスは感心しない。キリスト教徒でもない者が子どもにプレゼントを渡したり、恋人とともに過ごす?........少し違和感を感じる。儲かれば、楽しければ何でもいいのでしょうか。どんなことも、意味をと問うていくことが大事なのでしょう。
おさとりケーキ
娘が作った手作りのケーキ。家族で楽しいチーズフォンデユパーテイ(醍醐味にかけて)の後、おいしくいただきました。
お釈迦さまのおさとりに感謝する成道会は12月8日です。仏教徒/真宗門徒の私たちが忘れて成らない日の一つです。(お釈迦さま誕生=4月8日はなまつり、お釈迦さまおさとり=12月8日成道会、お釈迦さま亡くなる=2月15日涅槃会/親鸞聖人の誕生5月21日、親鸞聖人ご命日1月16日)
私たちが大事にしたいのは仏教/真宗のご縁の日です。隣のご主人の誕生をお祝いするのは少し違和感があります。「楽しければいい、周りがやっているから、儲かるから」そんなことに振り回されず、一つひとつの意味を考えて大事にしたいものです。
12月2日 本当のよろこびとは 〜10月22日の息子のけがをきっかけとして〜
10月22日夕刻、出先から帰ってくると、4年生の息子がケガをして病院に行ったことを知らされた。しばらくして妻から電話がかかった。「友達と遊んでいて、高いコンクリートの崖から落ちた。手を2カ所骨折して入院。手首と上腕部。今手術室に入った。」とのこと。大丈夫なんだろうか、右手か左手か、他にケガはないのか、頭は打っていないのか、なぜ落ちたのか。いろんな事が頭をめぐった。
現場に行った。信じられないほどの高さである。5〜6メートルはあろう。なぜこんなところで遊んでいたのか。
病院に行き、病室に戻った息子に会った。酸素マスクをかけ、左腕を固定していた。「何であんなところで遊んでいたの?」私の口から出た言葉は、息子の痛みに寄り添う言葉ではなく、怪我をした原因を突き止めようとする言葉であり、子どもの行為を責める言葉であった。子どもの思い傷みを聞く姿勢ではなく、子どもの行いを教え諭そうとする姿勢であった。
痛みに耐えかねている息子を見ながらも、私自身、どうにかして心を落ち着けよう、安心しようと考えていた。右手でなくてよかった。頭を打って無くてよかった、いのちに別状が無くてよかった。「よかった」・・・それは現状よりも、もっと悪い事態を想像し、比べて安心しているに他ならない。子どもの痛みの声に耳を傾ける姿勢ではなかった。
翌日からケガのことを知ったいろんな人と会う。「右手じゃなくてよかったですね」「あれくらいですんでよかったですね」「うちの子ももっと大きな骨折を・・」自分が心の中で考えていたことを、他の人から言われた。皆、子どもを案じ、心配しての言葉である。しかし腹が立った。同時に、わたしが同じように比べて安心していることを思い知らされた。
おそらく息子はこう叫ぶだろう。「よかったなんかじゃない、僕は今痛いんだよ!」
今まで私は、ご縁の方のお見舞いに何度か病院に足を運んだ。そんな時耳にし、口にするのが「これぐらいでよかった」「重篤な人もいるのに、軽くてすんでよかった」という言葉である。皆、比較して安心している声である。特定の人ではないが、どこかで他の病状の重い人と比べて安心しているのだ。自分自身がそうである。しかし、比べるということは、比べられる人がいるということである。ご門主さまはこう言われた。「比較して喜ぶということは、逆にくらべられる人にとってはたいへん辛く、悲しいことです。まことのよろこびとはいえないと思うのです。」(大谷光真『まことのよろこび』本願寺出版社)
平成9年、神戸でサカキバラセイトと名乗る中学生が続けて小学生を襲った事件があった。最愛の娘彩花ちゃんを亡くした母親山下京子さんはこう述べている。
「私にもありがちですが、他の不幸な人を見て「私はまだあの人よりはマシだ」と考えることはできるだけ避けたいと思います。不幸の度合いを測るものさしなどあるはずもなく、人の不幸と対比したわが身の幸福などあり得ないのです。いつまでも「あの人よりはマシ」と思い続ける人生は、やがて自分をどうしようもないところに追い込んでいくように思われるからです。」(山下京子『彩花へ生きる力をありがとう』河出書房新社)
「あの人よりはマシ」と比べる生き方は、自分より不幸な人、気の毒な人を探して満足する人生になってしまう。他の人と比べて一喜一憂するところには本当の安心はないし、他の人と比べてのよろこびは本物ではない。
私は住職として、布教使として、また僧侶としてお念仏のみ教えを伝える立場にある。お参りには法話を欠かさない。しかし、子どものケガをきっかけとして、痛みの声に耳を傾けず、一方的に教え諭すばかりの立場ではなかったかと知らされた。同時に、人と比べて喜んでしまいがちな悲しい人間であることを思った。自分の都合でおかげさまとよろこび、自分勝手なよろこびに終始しているわが身を思い知らされた。あらためて何冊かの本を読んだ。「よろこび」「幸せ」をお念仏のみ教えに照らしていかにいただいていくか、本当のよろこびとは何か、考えねばならないと思った。
写真展とコンサートの準備。仏教壮年会の方と仏教婦人会の役員の方がお手伝いしてくださる。よくしてくださる。初めてお寺にこられた方もあった。ご縁ができた。
写真はおよそ50枚、個性豊かな写真ばかり。遠くは大阪、島根から送ってくださった方も。
少し忙しく、日記が滞ってしまった。始めたばかりなのに。長続きしない性格。反省。
朝からめまぐるしい一日だった。夕方はPTA父ちゃんクラブのお手伝い。でも急なお参りなどで遅れた。迷惑をかけた。いい顔をして安請け合いして、迷惑をかけてばかり。反省。
大事な予定をすっかり忘れていた。ご迷惑をかけた。忙しい次の日、ほっとしたときによくポカをやる。ごめんなさい。こちらが悪くてもいつもいい訳をしてしまう私。自己を守ろう、正当化しようとする。情けない。
午後からだるますくーる。子どもたちを集めての日曜学校だ。少し声かけをがんばらないと参加者が少なくなってきた。
きょうは焼き芋を焼く。薪を山で拾ってきて、そして落ち葉をかき集めて。ご門徒からいただいたおいしいいもだ。子どもたちも笑顔だ。
神奈川県から帰郷されてのご法事のお宅へ。留守にしておられるので家の廻りからすべて清掃されているご様子。お親類を迎えてのご法事は大仕事。ご法事、仏縁はそれほどのものであるということだ。
夜、お隣の華松組の連研に出講。熱心に浄土真宗の学びとご聴聞。なかなかそれに応えられるようなお取り次ぎができない。反省。
京都出張。得度習礼所。浄土真宗僧侶になるため多くの方が学んでいる。今回は50歳以上の方。90歳を超える方もお一人。講義中もお念仏がこぼれる。ありがたい。ご聴聞の姿勢に頭が下がる。
夜、久しぶりの友人と一献。お念仏広めるお手伝いの苦労を語り合う。新しい風をいただいた。
山口別院常例法座に参拝。ご聴聞。聞くことは難しい。自分の思いで聞いてしまう。「得手に法を聞く」我が姿を知らされる。
秋季永代経法要をおつとめした。170名もの方々ともにお念仏の尊さに気づかせていただいた。お斎をまかなう台所は大変だった。追加、追加。ご苦労をかけた。ありがたいことであった。
多いだけがいいのではない。人数ではない。お一人お一人にお念仏のおこころが伝われば。一人でも。
子どもさんの臨終勤行をおつとめした。ご両親、ご家族の悲しみいかばかりか。かける言葉が見当たらない。お経の声も詰まる。阿弥陀さまはこの私の悲しみをともに悲しんでくださる。それが慈悲の心。ただ悲しみに寄り添うそれが仏さまの心。
思い通りに周囲の人が動いてくれない。腹が立った。しかし、今じっくり考えてみる、こうしてほしいと思っている自分がいるだけ。でも腹が立つ私がいる。思い通りにならないそれが苦である。
朝、少しの時間、境内やお寺の周辺をカメラ片手に散策。ご門徒に出会い、立ち話。心の交流のひとときを味わった。ノブドウが美しく色づいている。フユイチゴの実りも見つけた。
光華会でお世話になった恩師のおひとり、武内紹晃先生(元勧学寮頭、龍大名誉教授)がご往生されたので尼崎の浄光寺でのご葬儀に参拝した。仏教学、中でも唯識がご専門。震災に遭われ、お見舞いに伺ったときのことを思いご苦労を偲んだ。
帰路、新幹線が人身事故のため二時間遅れ。夜の家庭法座(野来見)に遅参。何があるか分からない。
私の人生も何が起こるか分からない。病気、事故、そして死。何が起こってもいい心の準備、なかなかできない。できないからこそ常に喚(よ)びかけてくださる阿弥陀さまのはたらきを思った。
萩、三見(阿武組)の仏教婦人会幹部研修会に出講。皆、真剣にご聴聞される姿に、お念仏を次世代に伝えねばというご熱心なこころに出会わせていただいた。
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