前回と同じシリーズ(?)のうち、今年4月に刊行された最新号を取り上げる。本書は全4部から成るが、そのうち座談会を記録した第一部と第二部を中心としてみていきたい。第三部および第四部は資料として、こちらもパラパラとめくると面白いだろう。2007年出版の『日本仏教の危機と未来』とは異なりいずれも座談会となっているが、やはり人選はさすがの多岐に富むそれである。目に覚えのあったのは山崎龍明氏、釈徹宗氏、大谷栄一氏の各氏である。本書前半は以下のような設定の座談会である。(完全なるお節介なのだが、山崎氏と大谷氏の配置が逆であれば、とも思ってしまった。)
第1部 明治維新150年企画 座談会—学僧が語る近代仏教—
星野英紀・大正大学名誉教授(真言宗豊山派)
山崎龍明・武蔵野大学名誉教授(浄土真宗本願寺派)
佐久間賢祐・東北福祉大学客員教授(曹洞宗)
安中尚史・立正大学教授(日蓮宗)
第2部 鼎談 平成仏教・宗教30年史
釈徹宗・相愛大学教授
大谷栄一・佛教大学教授
西出勇志・共同通信社編集委員・論説委員
山崎氏については、かつて書店でたまたま手に取った『平和への道—憲法九条は仏の願い』(2017年)を面白く読んで以降、折につけ気にしていた。本書の購入の決め手も山崎氏である。浄土真宗に対しての、そして親鸞聖人に対しての真摯な態度、そして「宗教」(浄土真宗)が今を生きる現実の人間を対象としたものであるならその生活や社会と向き合ってこその「宗教」(浄土真宗)であるとするスタンスには、多くを学ばせていただいた。この度も、重要な提言をされている。浄土に対する認識について、「みんな、明日にでも浄土に生まれたいというような建前を伝統としてきた」(18頁)ことについて再検討を促す。それは尤もである。「浄土に生まれたい心が起こらない」ことこそ、親鸞聖人の根本であると指摘する。第三部で那須英勝氏が重要であると挙げた倉田百三『出家とその弟子』は、そのクライマックスでまさに親鸞聖人のこの葛藤と苦悩を描いているのではないだろうか。西出氏はメディア人の立場から、いわゆる「戦争責任」への言及を困難にしている要因として、「国家」への強制的従属という観点ゆえに加害者意識より被害者意識が強かったことがあるのではないかと論じているが、この指摘も胸にとどめておきたい。自らの被害はあるまじきことだが、それが自身の加害を免罪するものとはならないため、被害と切り離して向き合わなければならないだろう。
明治から昭和にかけての時代の「仏教」は元々関心があったこともあり、安心して読むことができたが、より新鮮だったのは平成という時代の「仏教」である。宗教界にとっての「オウム真理教」は、私の想像より遥かに衝撃であり打撃であったようである。この逆風は今もその爪痕を色濃く残す。個々の仏教者のレベルで「オウムと仏教(浄土真宗)は何が違うのですか」という問いに答えられるようにならない限り、オウムの幻影が仏教(浄土真宗)にオーバーラップしてクロスまでしてしまうことは、論理的に当然のことである。今一度見つめ直す必要があるだろう。釈氏は、東日本大震災について複数回言及している。今やメディアの寵児たる釈氏の肌感覚について、私は意外と信頼している。2011年当時は高校生であり、また西日本にいたためか、恥ずかしながら東日本大震災の「未曽有さ」を直観するには至っていなかった。宗教界(仏教界)を取り巻く環境も、東日本大震災以前と以後とで大きく変わったようである。私としては東北大学に臨床宗教師の養成コースが誕生したということを受験情報として知っていたくらいであった。「以前」を知らないという弱点はあるが、今後は今の肌感覚を「以後」として持っておこうと思う。
PS. 第四部で資料として付された浄土真宗本願寺派の「予算」であるが、本書によると、本願寺派は「平成24年4月から、現在の宗派と本山本願寺がそれぞれ独自の運営となり、予算も別々となった」そうである。これにより、宗派としての決算額は平成24年を境に「5割から6割」となっている。いろいろと勘ぐってしまうのだが、一つの表として宗門の予算の「増加」を確認できないことは残念なことである。