映画館でジブリの作品が上映されていると聞き、我が宇部市が誇るシネマスクエア7に行ってきた。もちろん、鑑賞したのは表題の通り「もののけ姫」である。もののけ姫自体は何度も観たことはあるが、映画館で観るのは初めてであった。
まず、圧倒されたのは「音響」である。なるほど久石譲がその名を轟かせ、今だにジブリ作品のオーケストラのコンサートが所望されるわけである。繊細にして壮大な音楽は心に響いた。また絵の緻密さや色彩の鮮やかさにも卓抜したものがあり、アシタカが生まれ育った村を去る夜明けのシーンや、シシ神の「一歩」に生まれては死にゆく色とりどりの植物はその象徴的なものといえよう。
私はもののけ姫を、「自然」と「人間」の戦い、「善」と「悪」の衝突だと思っていた。しかし、それは違っていた。「自然」も「人間」も一枚岩ではなかった。例えば「自然」の側では、「例え我が一族ことごとく滅ぶとも人間に思い知らせてやる」と、猪としての誇り、そしてナゴの守(冒頭のタタリ神)を失ったことへの弔いに至上価値を置く乙事主・猪一族と、エボシを殺すことだけを念頭に置いているモロ(サン)との考え方の相違は言うまでもない。
もちろん、「人間」側も同様である。人間はいくつかの勢力に分かれており、そこに利害協調、利害対立が折り重なっている。その世界はどうなっているのか、以下、4つに分けてみていきたい。
1. エボシ(タタラ場)
製鉄所を経営し、石火矢など武器も作る。中心的存在であるエボシは売られた身であった女性を引き取って仕事を与え、またハンセン病を患った人にも手を差し伸べ、そのような人にも一人の人間として接する。「その人はわしらを人としてあつかってくださったたったひとりの人だ。わしらの病を恐れずわしの腐った肉を洗い布をまいてくれた」。エボシの秘密の館にいる長の言葉からは、人間の尊厳を重んじるエボシの慈しみの心がうかがえる。
しかし、鉄を作るために(火を燃やし続けるため、砂鉄を集めるため)多くの木を伐採して山も削るゆえ、「自然」とは敵対してしまう。シシ神退治に赴くのは、その森を崩すことによって製鉄を維持するという生活のためである。一方で製鉄という技術を欲しがる武士たちにも狙われており、戦火も交えている。事実、遂にはエボシの留守中に浅野らによる襲撃を受け、主力を欠いていたタタラ場は敗北を喫することとなる。
2. 浅野公方(地侍)
室町時代頃のいわゆる「武士」、「地侍」。自らの勢力を広げることに熱心であり、個々の侍は功名を立てることに必死となっている。しかし時代的に、むしろそうでないと生きてはいけないのかもしれない。タタラ場の製鉄技術が喉から手が出るほど欲しく、攻略の機会を伺っていたが、ついにエボシと男どもの留守中にタタラ場を制圧する。このことからシシ神退治には無関心であることが分かる。功名に焦った武士たちもさすがに犠牲を出し過ぎたので、おそらくアシタカはブラックリストに載っている。
3. ジコ坊(唐傘隊)
天皇の命令を受けたらしく、シシ神退治に奔走する。自慢の唐傘隊を引き連れ、また独自のネットワークから狩人も動員する〈最もシシ神退治に近い男〉。その任を全うするためには「臭い毛皮」も難なく被る。アシタカが考えていたような自然との共生、また人間個々への尊重は一切考慮されておらず、「やんごとなき方々の考えはワシにはわからん」と当初より開き直ってシシ神退治に邁進する。実はアシタカと出会う前、地侍らの合戦で命を落としかけたところをアシタカに救われている。映画でも、よく見ると赤と白の目立つ服装の逃げる者が一人いる。下駄はT字という謎のこだわりながら器用に操り、誰もが疑うその機能性は首を失ったシシ神の「ドロドロ」から逃げ切れた数少ない生存者になれたという事実によって実証された。
4. 朝廷
ジコ坊にシシ神退治を依頼するが、その理由は映画の限りでは定かではない。「不老不死」を求めたか、群雄割拠の戦国時世にあっての、せめてもの権威威示か。あるいは海を渡った鎮西の乙事主率いる猪軍団が京にまで攻めるのを防ぐため、その勢力減退を意図したものかもしれない。
以上の4勢力に、主人公のアシタカである。アシタカは、このような錯綜した「自然」と「人間」とがなんとか共に生きる道はないのかと探る。このアシタカがイケメンに過ぎる。まず、強い。冒頭の、タタリ神に備えて弓の張りを強くするシーン、ヤックルが手傷を負った後、相手の射った矢を手で取り、つがえて放つ局面、シシ神を狙うエボシに剣を投げてその石火矢に突き刺す場面など、枚挙に暇がない。そして内面においても、すべてのものと共に生きる方法を最後まで探そうとする、ひたむきさ、優しさ、正義感。モロとの対話の場面で、「モロ、森と人間が争わずにすむ道はないのか?ほんとにもうとめられないのか?」と問うたのは本心であろう。ハイライトは、シシ神退治という、アシタカ一人ではどうにも止められないほど多くの利害が働き、そして大人数が動員された策謀を阻止できなかったときである。怒りと悲しみに暮れるサンに対して「すまない。なんとか止めようとしたんだが...」と謝る責任感である。
映画の終わりはやや明るい音楽とともに緑一面となり、それゆえ一見ハッピーエンドかに思われるが、それは微妙である。思い返せば芽吹いた生命はかつての森のそれではない。甲六は「すげぇ...シシ神は花さかじじいだったんだぁ...」と感慨に浸るが、サンは見抜いている。「よみがえってもここはもうシシ神の森じゃない」。ブナ、タブ、椎の木、楠といった照葉樹林の豊かに茂るシシ神の森には、もう戻らないのである。
PS. 我が蓮光寺の裏山には、椎の木、楠、椿といった照葉樹が目立つ。しかしながら竹藪からの孟宗竹と真竹も一大勢力となっており、さながら両者の領土争いの様相である。そのため伊東家としては前者に加勢すべく、竹林の剪定とタブの木の植樹を同時進行で行っている。長期戦になることは必至であるが、気候と風土に合ったかつての植生、深い照葉樹林の山を取り戻すべく奮闘している。