本書は各宗派の僧侶を中心に、幅広い方面から「仏教」について論じることのできる人選を試みている。仏教タイムス社の面目躍如である。執筆者10名のうち未読の時点で知っていたのは2名、丸山照雄氏、島薗進氏であった。第一部では7名がそれぞれ自説を展開するスタイル、後半は3名による座談会形式となっている。目次は以下の通りである。
第一部 家族と先祖祭祀 —日本仏教の基盤はどこヘ—
丸山照雄「家族の危機」
松濤弘道「転換期にあるわが国の寺院仏教」
孝本貢「先祖祭祀と仏教」
峯岸正典「仏事とその構造」
大村英昭「日本仏教は死なず」
久保継成「私と先祖」
村上興匡「葬儀の個人化と寺院コミュニティの再構築」
第二部 鼎談「これからの仏教」
島薗進、神仁、大河内秀人
当初は「一冊」ついて論じるつもりであったが、やはり各論者ごととして論じるしかない(そうでなければ失礼)と思い、箇条書き風というのが私の悪い癖の再燃のようでやや抵抗はあるが、以下丸山氏より一つずつまとめてみたい。
丸山論稿:丸山氏について二年前から知っており、その頃はよく読んでいた。修士に入って以降、修論のテーマを探る際に歴史学者の上原専禄(1899-1975、元一橋大学教授)経由で知り、それ以後は著書『闘う仏教』や雑誌『現代の眼』などの論文を漁って読んでいた。丸山の関心は主に日蓮と親鸞であったが、他宗教や戦前にも言及する広い視野に歯に衣着せぬ物言い、一方では差別への毅然とした態度に代表される強い正義感に、一時魅せられていた。
さて本稿に話を戻せば、丸山氏はこれまでの仏教界のスタンダードであった檀家制度を支えた「家族」制度、この崩壊を強く危惧している。その崩壊の主たる要因は「市場主義=グローバリズム=新自由主義」とされ、この結果宗教界も含めた各分野で「個別的価値体系が破壊され」ているというわけである。そしてここからの復活は、仏教界でいえば家族制度の「再生」であり、また寺院を中心とした共同体の「再生」によって遂げうると結ばれる。
松濤論稿:従来の寺院が「宗教法人としての特典を享受してきた」こと、また僧侶が「仏法弘布の使命感に燃え、積極的に自らの宗教的体験を自分の言葉で命がけで他に伝える努力が足りない」ことを嘆き気味に指摘している。これには私も襟が立った。「情報公開の時代にあって、はたして今日の僧侶は知識や体験の豊富な国民に対して、仏教や人生の何たるかを語り、説得する自信や誇りがあるのだろうか。我々は最早、閉鎖的寺門の殻に籠もって自己満足し、孤高を保つことは許されない」。一方では「真理」をかざし、一方では「時代の変化」という言い訳に逃げる仏教者を牽制するこの言葉は重い。
孝本論稿:「親—子を機軸にした家族理念は夫婦を機軸にしたものへと変わっていく。それはもはや先祖—自己の存立根拠が成立しなくなることである」と指摘し、「脱家社会化」を危惧している。
峰岸論稿:檀家制度ゆえに生じていた僧侶と門徒の間の微妙な感覚のズレ、これを「教理仏教」と「生活仏教」のギャップと認めてむしろ肯定する。しかし昨今では門徒の仏教感覚や老病死への想い、つまり「生活仏教」を僧侶の側が頭ごなしに否定することが目立つと批判、そのような態度に代表される僧侶の独りよがりな姿勢に警鐘を鳴らしている。
大村論稿:「おかげ」を強調する伝統仏教と「たたり」で説明する新宗教を取り上げ、それらの存続を「機能分担」「共存共栄」と辛辣にも表現する様子には、聖書学者田川建三(1935-)が彷彿とされた。このような発言ゆえか、「我が教団からの“お呼び”がめっきり減ってしまった」というようである。今後の日本仏教の可能性としては「官の仏教」ではなく妻帯僧侶や毛坊主に象徴される「野の仏教」の方向性だろうと示唆する。
久保論稿:八歳で父に死なれた自分にとって、父のみならず母、伯母も、仏教のおかげで「人間味ある人格として、私の心に蘇って」来てくれると、仏教への感謝が述べられる。しかし現在では先祖を想う気持ちが弱くなりつつあるため、今後は積極的に日本の伝統である仏教を伝えていかなければならないと決意を新たにしている。
村上論稿:葬儀研究者として、葬儀の変遷を語る。かつては葬儀は地域の行事であったのだが、大正末期以降、葬儀屋が肩代わりするようになり、個々の家の行事となったのである。これは公的から私的へともいえる。寺院については、かつては遊び場でもあったのだが、今日はその機能が限定されているしていると説明し、その再構築に向けて副住職への期待を述べている。
第二部は座談会であるが、多岐にわたるテーマの中で、特に私が書き留めておきたいことを二つ紹介しよう。大河内氏は団塊の世代が「一見、宗教に最も遠い人の塊なんだろうと思います。(…)宗教に対するリスペクトのない世代かもしれない」と感覚を述べている。これは私の知り得なかった感覚である。神氏は浄土真宗について「非僧非俗という立場に立ちながら、自らを「僧」と呼んでしまっているとこにも矛盾があります。もったいないことです」とやるせなさを表している。「もったいない」という反応には驚いたが、記憶にとどめておく価値のある発言である。
以上、本書の概要を追ってきた。各論者、それぞれ抱いている「危機」と「未来」は異なる。最後に私なりのコメントを述べることにしたい。本書に倣い、「危機」と「未来」を表裏一体なものと捉えて述べてみよう。まず、丸山氏の指摘する通り、家族制度(イエ制度)の崩壊は仏教界に決定的な変化をもたらすであろう。これは間違いない。法座も、お墓も、年忌法要も、その前提が変わる。しかし「世の中常ならず」を掲げる仏教であるなら、これに絶望してはいけない。
確かに家族制度の崩壊は仏教の存立基盤を揺るがす。しかし、この事態を嘆き、何とか再生させることだけに躍起になるばかりでよいのだろうか。むしろこの風潮を個人主義的価値観の台頭、帰属による区別からの解放と見做せば、「誰しもを分別することなくお救いくださる」阿弥陀如来の「無分別智」は、今こそ時代の最先端をゆく概念なのではないだろうか。近代的個人主義の台頭が耐え難い寂寞を伴うことは、夏目漱石『こころ』でKが自ら命を絶ったことに象徴されるように覆い難い事実である。近年、「共にあること」への着目がフランス現代思想の再評価の文脈でなされ、共同研究による専門書が連続して出版されるなどしていることも事実である(『共にあることの哲学』(2016年)、『共にあることの哲学と現実』(2017年))。「倶会一処」というコンセプトも、個人主義が尖鋭化すればするほど注目を集めるに違いない。